木戸孝允への旅はつづく 29


青年時代(江戸・京都)

● 晋作、覚醒する(上海にて)

この頃、高杉晋作はどうしていたのでしょうか。彼はこの年の1月に藩命により上海に派遣され、5月初旬に上海に到着、7月14日には帰国しています。長州藩はすでに航海遠略策を放棄し、京都では小五郎が朝幕間を周旋する外交の任にあたっていました。
当時の上海はイギリスやフランスの属領のようになっており、主権者であるはずのシナ人は貧乏で、みすぼらしく、ひたすら外国人に使役されていました。白人が通りかかると、こそこそとよけて道を譲るのです。晋作はこうした状況をみて衝撃を受けます。

わが国もいずれはこのようになってしまうのではないか?

民衆が蜂起した「太平天国の乱」(長髪賊とも呼ばれ、洪秀全が指揮した)は1853年には南京を陥落させましたが、当初、英仏は彼らを利用して清朝を滅ぼし、漁夫の利を得ようという思惑があったようです。しかし、北京条約の締結により清国政府は列強の支援を受けて猛攻に転じ、太平天国軍は1864年にイギリス軍によって滅ぼされてしまいました。

上海で数多くの蒸気船を眼にした晋作は、これまでの風と潮によって航行を制約される帆船では、到底外国に対抗できないことを悟ります。どうしても蒸気船を購入しなければならぬ、と思い詰めた晋作は、長崎に着くと独断で3万7千ドルで売りに出ていたオランダ船の購入を契約してしまいます。驚いた藩政府は、そんな大金はとても支払えないとして、購入を不許可としますが、晋作は絶対に購入するべきだと主張してがんばります。結局、売り手側が手をひいてしまい、この問題も立ち消えになってしまいました。

京都に入った晋作は攘夷派の武士たちの言動に接して、その浮薄さに失望します。彼は小五郎に送った手紙で、
「自分の名を他国人に売らんがために、言わなくてもよいことを言いまわり、虚言を吐き散らしている――」
と不満を述べています。
尊攘志士も玉石混交で、名利のために激論するだけの偽志士がいたのでしょう。のちに小五郎もこうした一部の過激派浪士たちの無思慮な言動に悩まされ、その対応に苦慮することになるのです。
晋作は上海をみて、攘夷など不可能なことは十分にわかっていました。しかし徳川幕府の下での安易な開国は、明らかに中国の二の舞になりかねないことにも気づいていたのです。日本人が結束して欧米列強にあたるには、徹底した攘夷を実行して、新しい政治・社会体制を築く以外にない。それには防長二州を捨てる覚悟で行動しなければならない。俺は脱藩する、松陰先生と同じように狂うのだ!

こうして晋作は、のちに「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と伊藤博文が形容したとおり、江戸の藩邸を抜け出して、松陰と懇意だった笠間の加藤有隣(補記あり)のところまで桂馬のようにすっ飛んでいきました。師・松陰に倣い、身軽な浪人となって、藩にも迷惑をかけまいとしたのでしょうが、有隣は晋作の脱藩には反対します。藩に戻るように説得されて、彼はやむなく江戸へ引き返しました。
「またか、しょうがないなあ」と小声でぶつぶつ言いながらも、小五郎が晋作のために脱藩にならないように工作したので、晋作はお咎めもなく藩務に就くことになりました。
が、それもつかの間のことで、今度は横浜での外人襲撃を企てるのです。晋作に同調した志道聞多(井上馨)、久坂玄瑞、品川弥二郎、赤根武人などが品川の遊郭「相模」に集まります。決行日を11月13日と決めて、前日には神奈川の旅籠「下田屋」に泊まりました。ところが、どういうわけか、幕吏がこの下田屋の周辺に配置され、あたりを警戒しているのです。そこに、ちょうど勅使として関東に来ていた三条実美、姉小路公知の使者がやってきて、「幕府が破約攘夷を受け容れようとしているこの時期に、あえて混乱を起こすべきではない」と彼らを説得しました。どうやら計画が漏れていると知った晋作たちは、やむなく下田屋を引き上げて、大森の梅屋敷まで行くと、そこでは世子定広が待っていました。

久坂からこの計画を打ち明けられた土佐の武市半平太が、これはまずいと思って山内容堂に打ち明け、容堂が毛利家の世子に伝えたというのが実情のようです。直接若殿から諭されれば、計画は断念するほかありません。計画を放棄する誓約をした晋作らに、制止に一役買った土佐藩士や勅使の使者たちが加わって酒宴となりました。すべて丸くおさまると思われた矢先、馬を駆ってやってきた人物がいました。すでに酒を飲んでいて、ほろ酔い気分の周布政之助でした。

<補記>   加藤有隣(のち桜老) 1811〜1884

常陸(茨城県)笠間藩士で、漢学・国学に通じた尊王論者。若くして藩校「時習館」の都講となり、のち会沢正志斎(水戸藩)に師事する。高杉晋作など多くの尊攘志士が彼を訪れた。のち京都で水戸・長州両藩士間に斡旋、「八・一八政変」後は長州にのがれ、明倫館教授を務める。維新政府のもとでは学校、神社などに関係し、辞任後は東京に大同学会を創建して、同地で没した。


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