木戸孝允への旅はつづく 30


青年時代(江戸)

● イギリス公使館焼討ち

一同はすでに帰途につこうとしていました。そこに土佐藩士4人がいるのをみとめた周布は、馬上から挑発的な言葉を浴びせます。
「容堂公は朝廷の信任を受けて幕議にも参画している。しかるに因循に日を過ごしているだけだから、このような事件も計画されるのだ。容堂公は尊皇攘夷をちゃらかしなさるおつもりか。まったく見かけ倒しのお人じゃ」
土佐藩士は激昂して刀の柄に手をかけ、周布に詰め寄りました。いまにも斬りかかろうとしている状況を見て、とっさに晋作が「周布はおれが斬る」と言って刀を抜き、振りかぶりました。久坂があわてて晋作を止めようと後ろから組みつきましたが、刀の切先が馬の尻に触れ、驚いた馬は周布を乗せたまま走り出しました。
晋作の機転でこの場は決闘にならずに事なきを得ましたが、土佐藩の守旧派が周布の首を要求して騒ぎ立てたので、長州藩はやむを得ず周布に帰国、謹慎を命じたのです。でも処分は形式上で、実際は周布に麻田広輔と変名させて江戸に留めていました。ただ、もはや公然と外交折衝ができなくなったので、京都にいた小五郎と宍戸九郎兵衛が急遽江戸に呼び戻されました。周布の失脚によって、小五郎が藩外交の責任者に押し上げられたのです。

小五郎は江戸での一連の事件に衝撃を受けていました。破約攘夷の外交路線で、薩摩や土佐などと雄藩連合を結成していくつもりだったのに、薩摩との関係は悪化していました。世子定広が奉じた勅書のなかに、「伏見一挙等に死去した者たちを安政の大獄以来の殉教者とともに復権させよ」という指示がありました。寺田屋事件で殺された武士たちを忠臣として扱えば、殺させた島津久光は逆賊ということになります。結果的にこの部分は薩摩藩の要求により削除されたのですが、薩摩の長州藩への敵意を煽ることになってしまったのです。土佐も容堂公の軸足が「攘夷」と「公武合体」の間で揺れ動いているようで、どうもあてにできそうもありません。しかも高杉や久坂はいよいよ過激な行動に走りそうな様子です。このままでは長州藩の孤立化は避けられない。そう思った小五郎は松島剛蔵あてに決意の手紙を書きます。

「横浜一挙には、容堂公の命を受けて、土佐藩からもだいぶ人数を派遣して、事のしだいによっては伏見寺田屋のような処置にもおよぶかの様子であったとのことです。(略)もはや割拠の覚悟をきめ、防長を一天地と心得て、速やかに用意をしなくては、他日勤王の決戦をすることは難しいと存じます。(略)
もしもこの方針が実現できなければ、周布翁と高杉、私もひとまず亡命なりともいたし、一周旋してみようかなどと、高杉にひそかに相談したところ、彼も異論ありませんでした。老兄はどうお考えですか。どの道、右の両条以外に手段はないと愚考しますので、お答えをいただいたうえで、私も去就を決したいと思います」

この時点で、小五郎は将来の幕長戦争を予知していたと言えましょう。もとより晋作が小五郎の考えに反対するはずはありませんでしたが、一藩割拠して、決戦の準備が整うまで、じっとおとなしくしているような若者ではありませんでした。
文久2年(1862)12月12日、品川の御殿山に建設中だったイギリス公使館がなに者かによって焼討ちされました。当時は誰がやったのか明らかにされませんでしたが、ずっとあとになって長州攘夷派の仕業であったことがわかったのです。横浜の挙に失敗した晋作らは江戸藩邸の有志らを集めて御楯組なるものをつくっていました。晋作や久坂はもちろん、志道聞多、山尾庸三、寺島忠三郎、品川弥二郎、大和弥八郎ら横浜の未遂計画に与した11名すべてが参加していました。御殿山の焼討ちに加わったのは全部で12名で、前回の11人から2人が抜けたかわり、堀眞五郎、福原乙之進、伊藤俊輔の3人が加わりました。

「英国公使の邸宅は海に面した小高い場所にあり、二階建ての広壮な建物で、見事な巨材をもちい、各室は宮殿のように広く、床には漆が塗られ、壁には美しい模様の日本紙が張られていた」(アーネスト・サトウ記)

芝浦の海月楼に総勢12人が集まり、そこで打ち合わせをすませ、翌日の夜に品川の土蔵相模に集合しました。一同が飲んでいるあいだに、伊藤俊輔が外出してノコギリを買ってきました。御殿山には空堀があって、高い柵に囲まれていたことを伊藤が思い出したのです。現場の警備は手薄で、柵の丸太をノコギリで切っているあいだ、見咎められることもなく、彼らは難なく建物の敷地内に入ることができました。こうして焔硝などを使って放火に成功すると、一同は素早くその場をはなれました。火はたちまち燃え広がり、天を焦がす火炎が浅草あたりからも望見されたようです。長州藩激派の狂挙はやがて諸藩の尊攘派志士たちを引きつけて、幕末の大舞台に嵐を引き起こすことになっていきます。


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