木戸孝允への旅はつづく 3


少年時代(後半)

両親を失ったあと、小五郎はただ一人の妹治子とともに、義兄文譲に対して従順であろうとしました。実は異母姉八重子の生前に、治子が姉に対する礼を失して八重子からひどく叱責されたことがありました。これを気にした小五郎は、義兄に手紙を書いて謝罪しました。上義兄書 孝允再拝謹白ではじまる漢文の手紙で、彼は妹の過ちと自らも姉の意に逆らったことを詫びて、文譲と自分を関羽と張飛あるいは曽我兄弟に準え、兄弟の親睦を深め、ひたすら家庭の円満を希っています。

父が亡くなった同年9月に、小五郎は友人の山縣武之進(のちの大和国之助)とともに江戸への遊学を計画しました。家庭を離れて息抜きをしたいという気持ちがあったのかもしれません。そのときには親戚や友人らに諌止されて、希望を叶えることはできませんでしたが、新たな機会が一年後の嘉永5年9月にやってきます。江戸の剣客斎藤新太郎が諸国巡歴の途中、萩に立ち寄ったのです。新太郎は江戸で千葉周作、桃井春蔵とならんで剣術家として名声の高かった斎藤弥九郎(神道無念流「練兵館」道場主)の長男です。彼は嘉永3年にも萩を訪れており、明倫館で吉田松陰に学んでいます。すでに父より二代目弥九郎を継いでおり、今回は長州藩士の江戸遊学が藩に利益をもたらすことを説いて、その受け入れを申し出ていました。
藩政府も藩士の藩外遊学を奨励していたときだったので、留学生を藩費で江戸にやることに決めました。選ばれたのは河野右衛門、永田健吉、財満新三郎、佐久間卯吉、林乙熊の5名で期間は1箇年でした。残念ながら小五郎は、剣の実力を認められていたにもかかわらず、選に漏れてしまいました。師の内藤作兵衛は小五郎をもう少し自分の手で育てたかったのかもしれません。でも小五郎は諦めずに、私費での江戸遊学を藩政府に願い出ました。弟子の切なる思いを知った師は、彼の願いを叶えてやろうと考え直し、小五郎を推挙する書を藩政府に提出しました。そんな師匠の後押しもあって、小五郎はついに3箇年の遊学許可を受けることができたのです。

小五郎は喜びましたが、その一方で家に残していく妹治子や高齢の祖母のことを思わずにはいられませんでした。しかしこの機会を逃しては、藩外に出る希望はもはや叶えられないと思い、妹を諭し、使用人の友蔵に後事を託すと、同年9月末日に新太郎一行とともに萩を発って江戸に向かいました。城下の金谷まで多くの友人たちに見送られて、その日は山口に一泊しました。翌日、山口から宮市に入って松崎天満宮を参拝したあと、小五郎は義兄文譲の生家小泉氏を訪れて富海に至っています。10月2日には富海から船便で室津に至り一泊。10月4日には厳島に到着し、厳島神社に参拝しました。その後、大阪、伏見を経て京都に入り、初めて禁裏を拝し、祇園社に詣でました。
10月18日には伊賀の上野に到着、津藩主藤堂氏の講武場で同藩士と剣術の試合をやり、22日、伊勢の津でも演武荘で藩士と撃剣をやっています。11月3日、津を発って松坂、山田、鳥羽、田丸、白子、四日市を経て、15日に桑名に宿泊。その後熱田から東海道の諸駅を経て、江戸に着いたのが11月下旬でした。

道中、小五郎はいく度か他の者たちの食事や宿賃を出してやっています。伊勢の山田では芸者まであげて、皆の遊興費を支払っているのをみると、和田家から相当な旅費を含めた遊学費を貰っていたのでしょう。それに小五郎は他の部屋住みの藩費留学生と違って、すでに桂家の当主でしたから、自分で自由に使える俸禄もあったわけです。彼が後年になっても他人の面倒見が良かったのは、幼児から経済的に恵まれた環境に育ったことに、その因があったと言えそうです。
こうして無事、江戸に到着した小五郎は麹町三番町の斎藤弥九郎道場の門下生となりました。嘉永5年11月、小五郎は満19歳になっています。いよいよ新しい人生のスタートです。

<補記>    幕末江戸三大道場

流儀名    道場主   道場名  主な塾頭

北辰一刀流  千葉周作  玄武館  坂本龍馬
神道無念流  斎藤弥九郎 練兵館  桂小五郎
鏡新明智流  桃井春蔵  士学館 武市半平太

その他の主な撃剣流儀

心形刀流・伊庭道場   柳剛流・松田道場
直心影流・男谷道場   一刀流・中西道場
馬庭念流・樋口道場   天然理心流・試衛館
示現流(薩摩藩)



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