青年時代(江戸)
● 幾松との出遭い
小五郎がのちに木戸夫人となる幾松と初めて遭ったのは文久2年の夏ごろだったようです。公武周旋に忙しい時期でしたから、まだお互いに相手を知りはじめるという段階だったでしょう。京都の長州藩邸は御池の河原町にあり、そこから北へ歩いて10分ほどいくと三本木という祇園よりも規模としては小さい花街がありました。そこに料亭・吉田屋があり、小五郎が藩務を終えて出かけるには便宜がよく、幾松はその吉田屋の養女でした。
実父は若狭(福井県)小浜藩の藩士・生咲(きざき)市兵衛で奉行の右筆を務めていましたが、奉行の汚職事件に巻き込まれて責任を問われ、藩を離れることになったのです。市兵衛はまもなく亡くなり、生活に困った母親は再嫁して、娘の松子(幼名は計・かず)を養女に出しました。初代幾松はもとは祇園の芸妓でしたが、吉田屋の経営をゆだねられ、養女が14歳になったときに幾松を襲名させました。
二代目幾松はその美貌と利発さによって人気者となり、小五郎もしだいに惹かれていったようです。遊びではなく本気で幾松を愛するようになった小五郎は彼女を落籍したいと思い、その話を吉田屋に持ち掛けました。ところが吉田屋は小五郎の申し出に困惑している様子で、なかなか「うん」と言いません。ほかにも幾松に執心している者がいたことと、看板芸妓の幾松を手放したくなかったのでしょう。交渉の結果、落籍後も芸妓をやめずに吉田屋を支えてくれるならばという条件を受け入れて、小五郎は幾松を身請けすることになりました。
幾松がひきつづき座敷に出ることは、小五郎にとっても悪いことではありませんでした。幕府や各藩の動きについて情報の収集ができるし、養女の旦那として吉田屋を自由に利用できることにもなるからです。それに小五郎は長州藩の要職にある身ですから、当時は身分上からも表立って芸妓を妻にすることは難しかったのです。小五郎が幾松と正式に結婚できたのは明治維新になってからでした。それでも木屋町の住居で夫婦同然に暮らすことになり、この時期は小五郎にとって、もっとも活動的で、私生活においても幸福な時代だったといえましょう。
文久3年(1863)2月には将軍家茂が上洛し、攘夷期限を5月10日に決定しました。これ以後、国内の政治情勢はしだいに緊迫の度を深めてゆきます。それより少し前の2月6日、萩の私邸で謹慎中の長井雅楽が切腹に処せられました。享年45歳。叡慮(天皇のお考え)なるものが周囲の状況でいとも簡単に変更されることに小五郎は警戒心を抱きはじめていましたが、長井もその犠牲者であったのかもしれません。航海遠略策は朝廷によって支持され、結果的に朝廷によって退けられてしまったからです。過激な攘夷派の働きかけがあったとはいえ、その叡慮がまた、別の者の策謀によっていつ変化するか、反幕派、佐幕派いずれに効くともしれない、まことに油断のならない劇薬でした。そのあやうさを小五郎は、その年の夏には身をもって体験することになります。
その間、3月下旬に小五郎は山縣半蔵とともに勝海舟(麟太郎)の大坂邸を訪れました。勝は3年前に幕命により咸臨丸で米国に渡っており、その圧倒的な工業力の差を見せつけられていました。幕臣で開国論者だったのですが、この時期には「いっそのこと攘夷の戦いをすればいい」と思っていました。外国との戦争で一度こっぴどく敗れなければ、日本人は目ざめないと考えたのです。今の幕藩体制ではどうにもならない、新しい政治体制を築かなければ、いずれ日本は滅びる。それをわからせるためには、攘夷を実行するにしかず。
「一敗地にまみらば数十年あるいは数百年ののち、雄を天下に揮うべき国とならん」
勝は自己顕示欲が強い人だったので、小五郎はそれほどの親近感は持たなかったようですが、「海軍を興起させることが護国の大急務である」という意見には賛成できました。それには海外の情勢と西欧の先進的な技術を学ばなければなりません。かつて亡き来原良蔵とともに海外渡航を企て、果せなかったことを思い出し、小五郎は今こそ実行するべき時だと考えました。同じ考えを志道聞多(井上馨)、山尾庸三、野村弥吉も持っていることがわかり、4人は英国への渡航を誓い合います。英国とは当時、生麦事件の賠償問題で危うい関係にありましたから、命がけの渡航でしたが四人とも死地に赴く覚悟はできていました。
彼らは外遊許可を藩に申請しました。しかし重要な時期に藩の外交を担っている小五郎の渡航を藩が許すはずもありません。小五郎にとっては将来を見据えての希望だったのですが、彼の渡航申請を藩庁は許可せず、代わりに軽輩の伊藤俊輔と遠藤謹助が加わることになりました。期間は5年で幕府に隠れての密航です。村田蔵六が5人の渡航に尽力し、彼らは5月12日にイギリス船に無事乗込むことができました。
その2日前の5月10日に、長州藩は下関でアメリカ商船ペムブローク号を砲撃しました。他藩に先駆けて、攘夷戦争を実行したのです。
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