青年時代(京都・下関)
● 長州藩の外船砲撃
ペムブローグ号(約300トン)は田ノ浦沖に投錨していました。幕府公認の商船だったので、船長のクーパーは長州藩から砲撃をうけるなどとは夢にも思っていませんでした。事実、海防総奉行の毛利能登は発砲を禁じていたのです。しかし久坂玄瑞らの光明寺党は外国船をすべて攻撃対象と考え、攘夷決行にはやっていました。松島剛蔵が指揮する庚申丸はカノン砲八門を装備しており、夜間、米船に密かに接近していきました。午後10時ごろ、4発の鉄丸が轟音とともに発射され、そのうち2〜3発が命中しました。英商から購入した壬戌丸もちょうどその場に来合わせて戦闘に加わったので、驚いたペムブローク号は舷側を破壊されながらも、なんとかその場を脱して全速で逃げ去りました。
これを皮切りに、22日にはフランス艦を、26日にはオランダ艦に砲撃を浴びせ、ただ驚愕するばかりの両艦を逸走させたのです。「攘夷が成功した!」と、長州藩は勝利に沸きたち、久坂玄瑞ら3人がさっそく京都へ報告に上りました。でも、そんな勝利の喜びもつかの間、6月1日には米国軍艦(ワイオミング号)の猛烈な反撃にあって、長州艦船(癸亥、庚申、壬戌)は沈没、大砲、砲台も破壊されて大損害をこうむり、5日にはフランス軍艦(フリゲート艦セミラミスと通報艦タンクレード)も下関を砲撃して、250人の武装兵を上陸させ、砲台を破壊し、村を焼き払って復讐戦を果したのです。
同じころ、薩摩藩が引き起こした生麦事件の謝罪や賠償問題で幕府は窮地に立たされていました。やむなくイギリスの要求を受け入れて、11万ポンドを支払いましたが、イギリス側は薩摩藩にも償金と犯人の処罰を要求していました。しかし薩摩藩は犯人は行方不明だと言い張り、償金の支払にも応じようとはしませんでした。
7月2日、交渉を打ち切ったイギリスと薩摩との間で薩英戦争の火蓋が切って落とされました。折から台風の影響で暴風雨の中での激戦となり、イギリス側はジョスリング艦長を含む63名の戦死者を出し、薩摩側の死者は5人でしたが、砲台や洋式工場集成館が破壊され、市街地も火災で焼かれてしまい、双方に大きな被害をだして終わったのです。
皮肉なことに外国と直接戦闘を交えた長州と薩摩はこののち、特にイギリスとの接近を強めていくことになります。
さて、長州ですが外国船の報復攻撃で海上戦に敗れ、陸上戦でも太平に慣れた世禄の武士のだらしなさをさらけ出して敗走した事実は長州藩に相当な危機感をもたらしたようです。緒戦でこのていたらくですから、こののち本格的な攘夷戦争などできるものではありません。なんとかしなければならぬ、といって白羽の矢をたてた人物――それが高杉晋作でした。
当時、晋作は頭を丸めて僧侶姿になっていました。彼は品川のイギリス公使館焼討ち後も江戸に留まっていましたが、何をしでかすかわからない晋作を心配した世子定弘が志道聞多を派遣して、京都につれて来させたのです。でも、彼は他藩の志士や浪士たちと交際する気はなく、公武間の周旋など無意味であると思っていました。今、京都では長州藩の攘夷派勢力が盛んだけれど、公武合体派や一橋(慶喜)などがこのまま黙っているわけがない、長州はいずれ彼らを敵にまわして戦うことになるに違いない。わが藩はその準備をしなければならない。
晋作はそうした自分の考えを上司の周布政之助に訴えました。京都を引き払い、防長二国に閉じこもって藩の実力を養い、討幕の戦いを準備しなければならない、という晋作の性急な策を周布は否定しました。まだ時期が早い、と周布は言います。いまは尊王攘夷運動で幕府の力を弱めておく必要があり、あと10年もすればそうした時もこよう、という周布に晋作は憮然として、「それなら自分は10年間用がない」と答え、10年間の賜暇願いを出して坊主になってしまったのです。
西へ行く人をしたひて東行く わが心をば神や知るらん
と詠じて、自ら東行と号し、黒衣に数珠の姿で暮らすことになりました。自分は西行法師のように風雅に生きることはできないから、東に行く(江戸征討のことか?)ことになるだろう。そんな自分の心を知っているのは神だけであろうか――。晋作の切った髪を見た世子は、ほーっとため息をつきました。
でも、坊主になったからといってじっとしていたわけではなく、その間彼は将軍家茂の行動を監視するために関白鷹司輔熙(すけひろ)の邸へでかけたり、天皇の攘夷祈願の行列に家茂が供奉している姿を見て、おもわず「征夷大将軍!」と叫んだりしています。晋作は徳川幕府が安易に外国勢力に妥協して、日本をシナのように主権を失った惨めな状況に陥れることを、ひどく恐れていました。上海の惨状を目の当たりにしてきた晋作だからこそ、その想いは切実だったでしょう。
6月5日のフランス軍艦との交戦後、、藩主父子に呼び出され、馬関の守備を一任された晋作は、萩の松本村から出て、翌日には下関に到着しました。そこで戦闘状況を確認した彼は、今の実戦体験の乏しい武士だけの兵力ではどうにもならないと結論づけ、新しい部隊の編成を考えました。すなわち、陪臣、雑卒、藩士を問わず、有志の者を結集させた民兵組織、奇兵隊の創設です。
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