木戸孝允への旅はつづく 33


風雲篇(長州・下関)

● 奇兵隊結成

「奇兵隊の義は、有志の者あい集まり候につき、陪臣・雑卒・藩士を選ばず、同様にあい交わり、もっぱら力量をば貴び、堅固の隊にあいととのえ申すべしと存じ奉り候」

晋作が藩に提出した「奇兵隊々法上申書」にはそう記されています。農兵・民兵の採用については同年(文久3年)2月に周布政之助がすでに建言しており、吉田松陰の「西洋歩兵論」や「草莽崛起論」にもその理念が述べられています。外国勢との戦いには正規軍だけではとても対応しきれない。短兵接戦を以って敵にあたる精悍剛毅の者を集めた奇兵が必要であるとの説を、松陰の愛弟子たる晋作が実現させ、やがて新式銃と洋式訓練によって対幕戦争において大きな威力を発揮することになります。
奇兵隊の基礎となる組織はすでに久坂玄瑞、入江九一らが攘夷決行のため京にいた同志とともに光明寺において、正規軍とは別につくっていました。いわゆる「光明寺党」です。光明寺を本営にしたのは、八組(大組・馬廻り)諸士からなる藩の正規軍が、この軽卒より起った有志隊を嫌って、軽率な行動でもされたら困るといって、藩政府に抗議して受け入れなかったからです。
奇兵隊は藩が正式に認めて編成されるので、藩全体の危機意識が高まっている時期でもあり、参加者は続々と集まってきました。奇兵隊結成の本陣となった下関の豪商白石正一郎邸には、3日間で60余人が応募し、その数は日ごとに増えていきました。諸国の浪士や陪臣、農民や町民以外にも、藩の小役人や正規軍のなかからも参加する者がありました。白石自身も弟の廉作とともに入隊しました。志あるものは誰でもよい、身分を問わないというのですから、奇兵隊300人の定員はすぐに満たされ、やがて遊撃隊(500人)、八幡隊(100人)、集義隊(50人)、義勇隊(50人)の諸隊がつぎつぎと編成され、その後も数を増して慶応2年2月ごろには200を超えたようです。
豪農商や村役人主導による農兵隊も各所であいついで結成(豪勇隊、狙撃隊、自力隊など)され、長州藩全体が郷土防衛意識の高まりのなかで武装化されていきました。八月に英仏米蘭による四国連合艦隊が下関を報復攻撃したときに、最後まで抵抗をやめず、勇敢に戦ったのは藩兵よりもこうした民衆によって編成された武装集団でした。

しかし、奇兵隊の結成は同時に、正規軍との対立を惹起することにもなりました。藩の正規兵からなる先鋒隊(撰鋒隊)は下関に駐屯していて、奇兵隊は前田砲台を、先鋒隊は壇ノ浦砲台をそれぞれ分担して訓練に励んでいました。先鋒隊は勢い盛んな奇兵隊の存在がおもしろくなく、「百姓兵」などと言って侮蔑し、奇兵隊のほうは外国船による下関砲撃で、慌てて退却した先鋒隊士を「腰抜け武士」とののしったので、両隊の対立はいよいよ深刻化していきました。
8月16日、世子定広が下関の砲台を巡検しました。最初に奇兵隊が剣槍術試合、西洋銃隊の操練などを演武しましたが、日が暮れて、予定されていた壇ノ浦砲台での先鋒隊の演武が中止されてしまいました。隊士はこれを馬関総奉行御使番の宮城彦輔の画策に違いないとみて、もともと世禄の武士であった宮城が奇兵隊の結成に参加したことを快く思っていなかった彼らは、宮城を深く恨むようになりました。
やがて酒を飲んで感情が高ぶった者たち数人が宮城の宿舎を訪れ、論争を挑もうと謀りますが、これを宮城に知らせる者があり、身の危険を感じた彼は宿舎を出て、奇兵隊の駐屯地である阿弥陀寺に走って高杉晋作に事情を知らせました。すると、あとを追うように宮城の家僕がやってきて、先鋒隊士が大挙して宿舎に押しかけて来たと言います。これを聞いて宮城は激昂し、自ら相手の陣する教法寺を訪れ決着をつけると決死の覚悟を示したので、晋作はこれを危ぶみ、宮城と一緒に教法寺に行くことにしました。これを知った奇兵隊士らが万一の事態を考えて、二人のあとを追い、教法寺門外に着いて門内の様子を窺いました。そのうち中から大きな声が聞こえてきたので、隊士らはおもわず剣槍を掲げて寺の中になだれ込みました。驚いた先鋒隊の諸士は衝突を避けて逃れましたが、病臥中で逃げ遅れた武士のひとりが奇兵隊に斬殺されてしまいました(「教法寺事件」)。

この事件の処分で、藩は騒動の原因となった宮城彦輔に切腹を命じ、晋作は奇兵隊総督の任を解かれました。6月27日に初代総督になってからわずか3箇月後のことでした。その頃、京都では大変なことが起っていました。


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