木戸孝允への旅はつづく 34


風雲篇(京都)

● 八・一八政変(その1)

話はすこし遡りますが、将軍家茂が入京したのは文久3年(1863)3月4日のことで、3代将軍家光以来、じつにほぼ230年ぶりの将軍上洛でした。その4日後に孝明天皇の攘夷祈願を名目とした賀茂神社参拝があり、家茂は後見職の慶喜とともに随行しました。これは徳川将軍家に対する朝廷の権威の回復をはっきり示す出来事でしたが、4月の岩清水八幡宮の行幸に家茂の姿はなく、慶喜が名代で供奉しました。しかし、途中で腹痛をうったえてお社のある男山には上らなかったのです。開国派の慶喜にとっては気のすすまない参拝だったことがわかります。
京都はすでに尊攘派の勢力が圧倒しており、前年から安政の大獄や和宮降嫁に加担した幕吏や公家の家臣らを狙った「天誅」と称した暗殺が横行していました。幕府側は将軍の身に危険がおよぶことを恐れて、家茂救出のため老中格・小笠原図書頭(長行)が英艦の援助を受けて千余の兵を率いて西上し、大阪に上陸しました。幕府側はさらに兵員を満載した軍艦3隻を大阪湾に集結させています。小笠原の挙兵上京に驚愕しおびえきった廷臣たちは、これまで求めてきた将軍の滞京をあきらめざるを得ませんでした。結局、家茂は6月13日に大阪から順道丸(405トン)に乗込み、逃げるように江戸に帰ってしまったのです。

そうした状況下で、積極的に動いたのが久留米の真木和泉守でした。真木は寺田屋事件以後も過激な尊攘論を唱えていたため、藩の佐幕派から睨まれてあやうく斬首されそうになったのですが、長州藩が動いて真木とその同志27人を救い出すことに成功しました。真木は赦免の礼を述べるために長州に行き、毛利慶親に対面して持論の攘夷親政を説いたのです。日本の藩でも、諸外国を敵にして攘夷を実行しているのは長州藩だけだったので、「天皇親征さえ行われれば、長州藩は孤立無援の状態から脱却できる」という真木の主張には説得力がありました。真木は毛利公の支援を得ると、6月8日には京都に入り、尊攘派の廷臣たちを訪れて攘夷・討幕への決意を促しました。討幕まで踏み込んだ話になったのは、小笠原長行の軍事行動を久坂玄瑞から聞かされたからでした。
朝廷が幕府の開国論を承認しない場合には、御所に火をかけ、天皇を彦根に幽閉し、薩長には軍艦をさし向ける、という脅迫まがいの風聞が伝わっていました。単なる脅しだったのか、実際にそうした計画があったのかは定かではありませんが、幕府側がクーデターを起こすまえに、こちらが討幕の師を起こさなければならない、と真木は三本木の吉田屋で会談した小五郎にも力説しました。幕府が将軍をとり戻した以上、どのような攻勢にでてくるかわからないという猜疑心が、多少は真木の頭の隅にあった公武宥和策を一掃してしまったようです。慎重な小五郎は真木の計画の危うさを思って、最初は反対していました。でも、すでに朝廷を説得して支持を得ていた真木は強きの姿勢をくずさず、数度の会合を経て、ついに小五郎を同意させることに成功しました。小五郎もいったん同意した以上は、確実に成功させなければならないと覚悟を決めて、「建武の中興」の再現をめざして全力を尽くすことになったのです。

しかしこの計画には難しい問題がありました。孝明天皇自身が幕府側との争いを内心では望んでいなかったからです。妹の和宮はすでに家茂に嫁いで江戸にあり、義理の弟である家茂に対する天皇の情は深く、守護職として会津から京に赴任してきた松平容保への信任も厚かったのです。徳川幕府の2世紀半を超える長年の全国支配に抗って、自ら先頭に立ち、新しい時代を切りひらこうという意欲を持つには、孝明天皇はあまりにも古いしきたりと伝統のなかで慎ましく、静かに生活することに慣れすぎていました。それは、攘夷は望むけれども外国と戦争はしたくない、という非現実的な矛盾した思いにもみられる「事なかれ主義」でした。したがって、天皇自身が幕府との公武合体策を望んでいる以上、朝議を尊攘派の廷臣が主導してことを進めなければ、徳川一家に集中する権力を破壊して、天皇を中心とした新しい政治体制を築き上げることは不可能な状況でした。

こうした攘夷派公卿の働きかけもあって、8月13日、攘夷祈願を目的とした大和行幸の詔勅が下りました。幕府が攘夷をいっこうに実行しないことを理由に、親征が決定されたのです。攘夷親征にむけて真木和泉と長州藩はあわただしく動き出しましたが、小五郎はこの計画には最初から無理があることを悟りはじめていました。在京の諸藩がおよび腰であること、長州藩から応援を求めた土佐藩は、山内容堂が動こうとしなかったし、藩主父子の代理で上京してきた支藩の岩国藩主・吉川監物は表面上はしたがっていても、内心では親征に反対していました。それに作戦はまだ十分に練られていず、軍資金が足りないうえに、兵力も不足していました。もうしばらく時間が必要でしたが、若い中山忠光(公卿中山忠能の子)を奉じる大和挙兵の先鋒隊は14日に、幕府の直轄地である大和五條に入り、17日には先走って代官所を襲撃して代官鈴木源内らを斬殺してしまいました。彼らは天忠組(天誅組)と称し、土佐勤王党の吉村虎太郎や真木の弟子たちが加わっていましたが、血気にはやり、自重を促す真木や三条実美の使者が大和に着くまえに暴走してしまったのです。しかし、彼らにとっては尊王攘夷を純粋に実行しようとしただけなのでしょう。
一方、在京の長州藩の兵力は2千あまりで、三条実美を総督とする御親兵の千人をあわせても3千人しかいませんでした。真木も兵力が足りないことを痛感して、薩摩藩を味方に引き入れようと考えていました。

8月18日早暁(午前4時ごろ)、御所内で一発の砲声が轟きました。三本木で小五郎は、なにごとかと耳を傾けました。それは会津・淀藩と薩摩藩の武装兵による御所九門警備の配置が完了した合図でした。


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