風雲篇(京都)
● 八・一八政変(その2)
長州藩は堺町門を警固していたので、明け方に守備につきましたが、武装した薩摩兵によって入門を拒否されました。なにか異変を感じた長州藩士たちは藩邸にあつまって情報を得ようとしましたが、そこに堺町御門の守備解任の勅諚が届けられました。そのうえ大和行幸の延期、三条実美ら尊攘派公卿の参内禁止も伝わり、藩士らははじめて会津と薩摩の陰謀にやられたことを悟ったのです。
薩摩藩の高崎左太郎と会津藩の秋月悌次郎が密かに会談したのは親征の詔勅が下った当日(8月13日)でした。「詔勅は偽勅である。このまま親征が実行されれば、取り返しのつかないことになる。長州藩と尊攘派公卿を京都から追い出すべし」という薩摩側の意見を、秋月が会津藩主で京都守護職をつとめる松平容保に伝え、容保の同意によってこの計画はにわかに動き出しました。
これより三ヶ月前に攘夷派公卿・姉小路公知が路上で何者かに襲撃され、逃げ帰った邸で絶命しました。暗殺現場には刀と下駄が遺棄されており、これが特徴のある薩摩のこしらえで、持主が薩摩藩士田中新兵衛であることがわかりました。田中は逮捕され、白洲にひき出されると、証拠品の刀を拝見したいと請いました。そして、その差料を手にすると、いきなり腹に突き刺して自刃してしまったのです。いろいろと腑におちない点があって、田中が真犯人であったか否かは今でもはっきりしません。しかし、薩摩藩はこの事件によって乾門の守備を解かれ、藩士は九門の出入りを禁じられてしまったのです。公武合体派の公卿からも忌避され、薩摩は宮廷工作のみちを失うなど大きな打撃を被りました。その反対に、長州藩は攘夷派公卿の人脈を利用して勢い盛んだったので、薩摩藩士たちはおもしろくなかったでしょう。会津藩は凋落傾向にある幕府の権力を維持しなければならない立場にあり、ここに両者の利害が一致したのです。
高崎と秋月は宮廷の実力者で公武合体派の中川宮を味方につけました。中川宮は16日の早暁に親征中止などを上奏しましたが、その時には天皇は許可しませんでした。さすがに一度発した詔を無効にすることには、ためらいがあったのでしょう。でも夕刻には、大和行幸の延期、長州藩の堺町門警固の罷免、尊攘公卿の参内禁止などが決断されました。18日の午前1時、中川宮とともに武装した会津と淀の藩士たちが九門内に入って門を閉ざしました。薩摩藩は前関白近衛忠熙父子が参内する時に近衛邸の裏門から入りました。薩摩藩はこのとき、乾門警固の任に復しています。こうして寅の刻(午前4時ごろ)に、クーデターの準備完了の合図として砲声が轟いたのです。
九門の出入を禁じられた七卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、錦小路頼徳、壬生基修、四条隆謌、沢宣嘉)は関白鷹司邸に集まり、小五郎や長州の藩兵、真木和泉守ら親兵千人も鷹司邸に移ってきて、邸内は武装兵でいっぱいになりました。小五郎も黒の陣羽織に陣笠を被り、白鉢巻を締めて戦闘の準備を整えていました。長州藩士らは一戦交えても君側の奸を除く覚悟でした。しかし吉川監物が、開戦を主張していた小五郎と久坂を鷹司邸の一室によんで、思いとどまるように必死に説得したのです。会津の在京兵力はおよそ2000、薩摩は200
でしたから、勝算はあると小五郎たちは思ったのでしょう。もしここで負けても、国許にいる藩主父子の知らないことなので、迷惑にはならないという考えもあって、用心深い小五郎にはめずらしく主戦論をとなえたのです。もとより若い久坂の戦闘意欲は十分に高まっていました。でも、「一時の怒りに駆られて、藩を朝敵にしてはならぬ」という監物の言葉には、二人とも沈黙するよりほかありませんでした。
結局、長州側は朝廷の撤兵要求をのんで、不測の事態を回避するため鷹司邸を出て、洛東の妙法院に移りました。そこでの会議の結果、三条以下七卿を守って長州へ帰藩することに決しました。世にいう「七卿の都落ち」です。
どの藩も政局の激変を望まなかったために、長州一藩が孤立した立場に追い込まれ、これ以後、明治維新を迎えるまで、藩の存亡をかけて徳川幕府と対峙することになります。攘夷の叡慮を忠実に実行しようとした長州藩が、その叡慮によって苦境に追い込まれてゆくのです。のちに幕臣であった福沢諭吉は「朝敵だ、勤王だといっても、つまりは兵力の強弱でどうにでもなり、勅命などというものは、ローマ法王の命令と同様で、ただ兵力に名義をつけたようなものだ」と語っています。会津と薩摩が図って天皇をそそのかしたのだ、という尊攘派の主張ももっともであり、叡慮に疑問を抱いた小五郎の不安が的中してしまったといえるでしょう。
小五郎は一行と兵庫で別れて、大阪の藩邸にもどり、さらに京都に潜入しました。すでに長州人の入洛禁止令が出ていたので、藩邸には入らずに長州藩出入の商家大黒屋に潜伏することになったのです。
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