風雲篇(京都、大和、生野)
● 天誅組、生野の悲劇
長州勢が三条実美ら七卿を守って雨中、京都を発ったのは8月19日の早暁でした。薩摩・会津軍の追撃を警戒して、臨戦態勢をくずさずに行軍していましたが、幕府側は長州兵の人数を過大に見積もっていたために、最初から追撃する意志はありませんでした。薩会両藩によるクーデターによって、長州藩士ら尊攘派が京都から撤退したことを、大和で挙兵した天誅組はまったく知りませんでした。孝明天皇は公武合体派に抱き込まれ、大和行幸は中止されていました。天誅組の義挙はここに大義名分をうしない、孤立無援の状態に陥ってしまったのです。五條代官所の代官を誅戮したあと、彼らは代官所の札を下ろし、朝廷支配になったことを報せる札を新しく立て替えました。
「しかるところ、京都の人より大変つげ来る。昨十八日暁天に中川宮、(略)、薩州、因州、会津ら奸計を企て、にわかに有栖川宮へ発砲し、不意に御所に押入り、おそれながら天子を擁し奉り、戎兵をもって六門をかため、ご親征を妨げ奉り、偽説をもって長州をしりぞけ、三条殿ら七卿(略)まで長州表へ亡命遊ばせられしより、実にもって天下の大変この上なしとのことなり」(「大和日記」より。著者は松本奎堂、半田門吉の2説あり)
この事変を知ったとき、彼らが「朝敵どもより朝敵の名を蒙るは必定」と危惧したとおり、二十日には朝廷より「朝廷の御用と称する浪士数十人が河内狭山周辺にいるとのことだが、彼らは朝廷とは一切無関係であり、早々鎮撫するように」との布達が出され、その後、郡山、彦根、津、紀伊の各藩に追討令が下されたのです。
彼らはそれでも、尊皇攘夷と維新実現の志を貫くため、追討軍と戦う決意を固めました。しかし追討軍は約1万と多勢に無勢、高取城の攻防戦に敗れ、以後、大日川、広橋、栃原、下市口と各地を転戦しますが、味方であった十津川郷士が離反し、鷲家口(東吉野村)における突撃戦で天誅組はついに壊滅してしまいました。リーダー格の藤本鉄石、松本奎堂(けいどう)、吉村寅太郎らは戦死、伴林光平は刑死し、中山忠光は長州へ逃れましたが、のちに下関で何者かによって暗殺されています。享年20歳。
ところで、天誅組に決起の延期を説得するため、三条や真木から派遣された平野国臣に随行した安積五郎、池田謙次郎、三浦主馬の3人は、逆に天誅組に合流して戦っています。ミイラ取りがミイラになってしまったわけですが、平野もとどまってともに戦う意志があったようです。しかし、三条に復命する責任があったので、帰京することになりました。平野は京の政変を知ると、天誅組を支援する決意をかため、但馬に向いました。彼は幕府領の豪農中島太郎兵衛、北垣晋太郎、本多素行らと農兵を組織して挙兵するつもりでしたが、だれか上に戴く人物が必要でした。そこで平野は長州三田尻に赴きこの計画を語ると、七卿のひとり、沢宣嘉(のぶよし)が積極的に賛同しました。10月2日、沢は河上、戸原ら37名の奇兵隊士とともに、自重策をとる長州を密かに脱出したのです。
しかしその途中で、天誅組壊滅の報せがはいります。平野は挙兵中止と潜伏再挙を主張し、河上らはあくまでも挙兵を主張して議論が二分されてしまいます。結局、最後には挙兵に決し、一行は生野にはいって生野代官所を無血占拠すると、尊王討幕を主旨とする論告文を公表して農兵を募りました。
その間、出石、姫路2藩を中心とする追討軍が組織されつつありました。挙兵組は農兵とともに街道の南北を防衛する作戦をとり、北の妙見山に河上ら奇兵隊士が、南の播磨口に平野らが陣どりました。しかし、長州からの援軍も期待できない状況では先の希望が持てなかったので、平野は諸藩の兵が揃わないうちに脱出するべきだと考えました。そこで、使者を河上に送って説得するのですが、彼は受け入れようとはしませんでした。ところがその晩、沢宣嘉が脱出してしまったのです。
沢の脱出を知った農兵たちは戦意を喪失し、河上らを偽浪人と罵って、逆に彼らを包囲して襲撃したので、ついに河上ら13人の奇兵隊士は自刃して果てました。沢脱出の報せをうけた平野は義軍の解散を告げて、城崎に向かいましたが、豊岡藩士と遭遇して捕縛されてしまいました。のちに禁門の変(1864年7月)が起きた際に、京の六角獄に幽閉されていた平野は斬首され、37年の波瀾に満ちた生涯を閉じることになります。
「わが胸の 燃ゆる想いにくらぶれば 煙はうすし桜島山」
討幕の心境をうたった平野の歌といわれています。それにしても、彼らはなぜこのような無謀な挙兵に走ってしまったのでしょうか。彼らの想いは、吉田松陰のつぎの歌に代表されるのかもしれません。
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
八・一八政変による長州藩の追放以降、各藩の勤王党は弾圧をうけ、長州尊攘派もまた、厳しい冬の時代に入っていくことになります。
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