木戸孝允への旅はつづく 37


風雲篇(京都、山口)

● 小五郎、京に潜伏する

「八・一八政変」以後、京都の大黒屋に潜伏した小五郎は名を新堀松輔と変えて、長州藩復権のために工作していました。長州藩士は京都留守居役3人を除いて在京を禁じられ、小五郎、久坂らはすでに幕府側のブラックリストに挙げられていたのです。小五郎の従者として2人の若者がいっしょに大黒屋に泊まっていました。当時20歳の品川弥二郎と19歳の山田市之允で、大黒屋の迷惑にならないように風呂焚きや炊事の手伝いをさせていました。しかし久坂玄瑞や幾松が小五郎に会いに大黒屋に来るため、やがて目明しに怪しまれ、9月には大黒屋の離れの二階にいる男が桂小五郎であることが奉行所に知られてしまいます。
小五郎はそれまで水戸藩や福岡藩に働きかけて、長州藩の復権について周旋を依頼し、さらに長州藩からの使者、根来上総(国元加判役)の入洛許可を正親町三条実徳(権大納言)にも依頼し、実徳の周旋によって一旦は許可が下りたのですが、薩摩藩と会津藩の反対によって撤回されてしまいました。国元では藩内の俗論派(守旧派)が勢力を強めていたために、小五郎の帰藩をしきりに催促しており、結局、奉行所に居所を知られる前に長州に帰ることになりました。一時は守旧派が攘夷派政権を非難して周布政之助、毛利登人、前田孫右衛門の3人が罷免されましたが、小五郎が帰藩するころには高杉晋作など攘夷派の反撃により守旧派が一掃され、山口では再び尊攘派が政権を奪取していました。小五郎は大阪で勝海舟を訪ねてから9月23日に海路帰国しています。在京中の苦心の状況を海舟に語ったものと思われます。
帰藩すると小五郎は直目付、奥番頭格に任じられました。直目付は常に藩主に直属して政治を補佐し、要職任免の議にも参与する重職で、奥番頭は他藩の側用人にあたり、やはり藩主のそばで殿中の諸事を統轄する役割を果します。しかし京都での長州藩復権の工作に失敗した小五郎は責任を感じており、その職につくことを再三にわたり辞退しますが、藩主はこれを許しません。彼はもう一度上京して、工作をつづけることが自分の責務だと考えて、藩政府に上書を提出し、久坂にも周旋を頼みます。
「弟(私)心中なにぶんにも不安、ここもと(山口)に長く留まりおり候心底はこれなく、人に逢い候も赤面に堪えず、せめては君上ご忠誠のところ天下に暴白いたし、人の向背を定め候ところなりとも尽したく、この段ご諒察成し下され、大夫へ御逢いもござ候は、よろしく願い上げ奉り候」
と悲痛な心中を吐露しています。久坂も小五郎に同情してその周旋を約しますが、藩主は小五郎に、佐賀に行って鍋島閑叟侯に長州藩の真意を伝えるように命じます。小五郎は辞退することもできず、佐賀に赴きますが、閑叟は幕府をはばかって直接小五郎に逢おうとはしなかったので、小五郎は藩主からの親書をわたして佐賀を去りました。帰藩して藩主に佐賀出張の状況を復命すると、ほどなく萩の自宅に閉じこもってしまいます。なんとしても上京の許可を得ようと、今度は岡義右衛門に手紙を書いてその周旋を請いました。小五郎が職を辞して容易に姿を現さないので、藩政府は高杉晋作を遣わして、山口に出てくるように小五郎を説得します。晋作の熱心な説得によって小五郎はようやく晋作といっしょに山口に行きますが、彼の決意は固く、藩政府の許しがなければ、脱藩して上京するしかないとまで思いつめます。さらに同じ直目付の毛利登人にもその心情を打ち明けて、周旋を請います。そうしたことから、小五郎を思い留まらせることは不可能と悟った藩政府は、ついに彼の請願を受け入れて、京都行きの命を下したのです。
元治元年1月12日、小五郎は世子より腰に帯びた刀を賜り、同日に山口を発って三田尻に出て海路大阪に向いました。18日に大阪に着くと、対馬藩の大島友之允に報せ、すでに長州藩士の取締りが厳しかったので対馬藩士を名乗って、京都の対馬藩邸に潜伏しました。小五郎の目的は徳川幕府を是認する公武合体派に対抗する諸藩連合を結成することにありました。それにはまだ機運が熟していない討幕を口にしてもかえって不利な状況を招くので、攘夷のみを名分に掲げて味方を増やすしかないと考えていました。しかし諸国攘夷派のリーダー格である久留米の神官武士真木和泉は、七卿を擁しての率兵上京を主張しており、来島又兵衛も出兵論を支持していました。こうした者たちがいつ暴発するかもしれず、前年の秋以降、小五郎はこれに反対して、その過熱を抑えるのに非常に苦労していたのです。

一方、幕府側の動きですが、11月に一橋慶喜が入京し、在京中の有力諸侯が国政に参画することになりました。慶喜のほか、松平春嶽、山内容堂、松平容保、伊達宗城、島津久光が参与に任じられ、京都は公武合体派によって固められました。長州藩からの二人目の釈明の使者井原主計(かずえ)は入京を禁じられていました。年が明けると、遊撃隊を指揮する来島又兵衛の鼻息はますます荒くなり、藩から許可がでなければ、脱藩してでも隊を率いて上京する意志を固めます。来島は長州藩に同情する藩が多いとみていたのです。来島の行動を危ぶんだ周布が、世子定広の親書を持って来島を慰撫するよう、高杉晋作に頼みました。
「ウハの進発は聞くも腹が立つなり」
と思っていた晋作は、来島の説得に努めますが、逆に来島に罵倒されてかっとなり、無断で出奔し、京都に走ってしまいます。


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