木戸孝允への旅はつづく 38


風雲篇(京都、山口)

● 尊攘派列藩同盟なるか?

晋作は前年10月1日付けで奥番頭役に任じられ、160石を得ていました。「晋作、いつからそんなに臆病になった。もらった160石を捨てるのが惜しいのか」
内心ではこれを受けたことを恥じていた晋作にとって、この又兵衛の指摘は耐えがたかったのでしょう。それに京の様子や在京中の小五郎や久坂の意見も聞きたくて、後先のことも考えずに脱走してしまったのです。小五郎はその頃、林竹次郎を名乗って対馬藩邸に潜伏していました。彼は国許の容易ならぬ情勢を察して、なんとか武力衝突をさけようと諸藩のあいだを駆けまわり、藩公父子のこうむった罪の赦しを得るべく外交工作に専念していました。鳥取の池田藩は長州に同情的で「尊攘のことは弊藩も同様なので、安危存亡をともにする覚悟ですが、くれぐれも暴発だけはされないように」と伝えており、長州のためにいろいろ周旋していました。対馬藩大阪留守居役、大島友之允の協力により、3月半ばには因幡、備前、筑前、水戸、津和野など14藩40数名が曙亭に集まって会議が開かれました。小五郎は「叡旨を尊奉して攘夷の実効を奏し、国威を海外に宣揚せんには、正義の諸侯速やかに集議し、各々その赤誠を吐露して公明正大の論に帰一し、同心戮力してこれを天地神明に誓い、事の成敗利鈍を顧念することなく、国家のために尽瘁するを急務となす」という持論「正藩合一」を実現させるためにも、尊攘激派の進発論をなんとしても阻止しなければならないと思っていました。
一方、晋作は大阪から京都に入って小五郎や久坂、留守居役の宍戸九郎兵衛に会い、彼らの進発反対を確認しました。しかしすぐに帰国せず、京阪の情勢が思ったより深刻であるとみて、土佐の中岡慎太郎らとともに、開国論を唱える島津久光の暗殺を企てるのです。しかし警護のきびしい島津に近づけるはずもなく、彼は「藩公の命令に背いて大阪に飛び出し、勝手なことをしている」という国許の自分への批難を耳にして、くさりきってしまいます。酒ばかり飲んで荒れている晋作を心配した小五郎は、彼に帰藩を促し、ちょうど藩からの使者が二人、晋作を召還するためにやってきたので、国許の進発論者を説得するため、久坂も晋作といっしょに帰ることになりました。
元治元年(1864)3月25日、晋作は脱藩の罪で萩の野山獄に投獄されました。長州藩は、小五郎や京都留守居役の乃美織江がしきりに自制を訴え、帰国した久坂も進発中止を進言するので、老臣国司(くにし)信濃の率いる来島又兵衛配下の遊撃隊230名の上京はいったん中止になりました。しかし過激派をなだめるため、久坂は来島以下12名を形勢視察の名目でいっしょに京都に連れて行かなくてはなりませんでした。そのころ、京都ではすでに2月末に山内容堂が参与を辞して離京し、宇和島の伊達宗城、福井の松平春嶽、薩摩の島津久光も4月半ばには相ついで帰国していました。攘夷論が依然として強い朝廷の支持を維持するために、慶喜は久光や春嶽の開国論をこばみ、参与体制はわずか2ヶ月で瓦解したのです。公武合体派の諸侯が京都を離れたこの変化に来島ばかりでなく、久坂までが、いまこそ挙兵の好機とみて出兵を促すために帰国してしまいました。ただでさえ劣勢の慎重派は、久坂が来島を支持して進発賛成に転じてしまっては、もはや多勢に無勢、歯止役になるのは難しい状況で、小五郎の正藩合一の努力は危機をむかえていました。

東国では3月末に藤田小四郎率いる水戸攘夷派が筑波山で挙兵しました。小四郎は藤田東湖の子で、このとき弱冠22歳の若者でした。小五郎は彼らを援助して軍資金千両を送ったといわれています。5月初めに小五郎は正式に京都留守居役に任じられ、公金を使用できる立場にあったので、そういうこともできたのでしょう。筑波党は鳥取藩と岡山藩にも支援を乞う手紙を出していました。両藩主は水戸の徳川斉昭の子息でしたから、鳥取藩がその仲介役を果たしたようです。岡山藩はこれに応えて、一団の兵を江戸に派遣しています。

元治元年6月、京都では攘夷派の指導者のひとりである肥後の宮部鼎蔵の従者忠蔵が、南禅寺の近くで新選組の隊士によって捕らえられました。


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