木戸孝允への旅はつづく 39


風雲篇(京都)

● 新選組

幕末期において長・幕対立を決定づけた「禁門の変」を誘発することになる池田屋事変を語るまえに、やはり新選組について触れなければならないでしょう。新選組は壬生浪人ともよばれ、文久3年3月に京都守護職松平容保(会津藩)の支配下で京都の治安維持にあたった浪士集団でした。幕府が反幕派浪士を取締るために江戸で募集した浪士組は230余名にのぼり、そのなかに天然理心流「試衛館」の近藤勇、土方歳三、沖田総司などが入っていました。はじめ新選組の局長は芹沢鴨、新見錦、近藤勇の3人でしたが、芹沢と新見は乱暴な振舞いが問題視されて、会津藩主の内命により近藤一派に粛清されてしまいました。
幕府の浪士組募集には、尊攘浪士たちの反幕的活動をおさえ込み、そうした浪士そのものを幕府に取り立てて、囲い込んでしまおうという意図がありました。そのてはじめに投獄されていた浪士たちや、指名手配中であった清河八郎が赦免されました(清川は浪人大赦などの発案者だが、のちに過激な攘夷活動をしたために、暗殺される)。
幕府が囲い込みを狙っていた浪士のリストには土佐の坂本龍馬や久留米の真木和泉、それに浪人ではないのに、なぜか長州医師として久坂玄瑞の名前までありました。要するに尊攘浪士のリーダー格を集めて、他の浪士たちをも引きつける狙いがあったようです。当時、天誅の名による暗殺が横行し京の治安が悪化したのは、幕府による尊攘派の大弾圧(安政の大獄)が原因していましたから、その反省もあったのかもしれません。浪人を優遇して懐柔し、彼らをして反幕派浪士の取り締まりにあたらせれば、一石二鳥というわけです。とくに農民出身の近藤や土方らにとっては浪士組に加わって武士の身分を手に入れることは魅力的だったに違いありません。もはや幕府自体が厳しい身分制を緩和せざるを得ない状況になっていたともいえます。
こうした若者たちは当然、功名心にはやります。自分を認めてもらうためには、ぜひとも手柄を立てなければならない。これから起こる池田屋の騒動は佐幕派の過激派浪士と反幕派の過激派浪士が起こした正面衝突で、会津藩と長州藩がこうした過激派に引きずられて、ついにのっぴきならぬ武力衝突に突入してしまったともいえます。
反幕派の過激派浪士のリーダー格が真木和泉と宮部鼎蔵でした。宮部は五月はじめに入京したのですが、6月に従者の忠蔵が新選組の隊士に捕われてしまいます。新選組は主人の所在を明かさない忠蔵を南禅寺山門の桜の木に縛りつけてさらしました。忠蔵が捕われたことを知った宮部は潜伏先の枡屋から小川亭に移りましたが、そこの女将テイが南禅寺まで赴き、番人に金を握らせて忠蔵を釈放させたのです。しかしこれは罠で、新選組の隊士が忠蔵を尾行して、浪士たちの巣が枡屋にあることを突き止めます。
枡屋の主人湯浅喜右衛門は大津出身で本名を古高俊太郎といい、梅田雲濱の弟子でした。新選組の沖田総司、永倉新八以下20数名の隊士が枡屋を襲って古高を捕えると、壬生の屯所に連れていって拷問をくわえました。しかし本名は名乗っても、浪士たちの計画については口を割ろうとしなかったので、土方歳三がさらに凄惨な拷問をして、ついに密謀を白状させることに成功しました。この拷問のやり方についてはきわめて残酷で、かなり書かれてもいるので、ここではあえて触れません。彼の自白の内容は「烈風の日に御所に火をかけ、騒動にまぎれて中川宮を襲い、さらに主上の輿を奪って長州にお連れする」というものでした。
そのころ、枡屋の土蔵が何者かによって破られ、甲冑や鉄砲が持ち去られたという通報が入ります。新選組は色めきたち、ただちに会津藩に連絡して出動を要請すると、京都市中を走りまわって不審箇所の探索をすすめたのです。
どうやら浪士たちは長州の慎重論を一掃するため、自分たちが先だって事を起こし、長州を決起させるつもりだったようです。小五郎に話しても反対されるに決まっているので、極秘に計画を練っていたのでしょう。しかし小五郎もなにかしら危ぶみ、「浪士たちが何かを企てているようだが」と、大阪頭人の北條瀬兵衛宛の手紙に書いています。「わが藩のものには知らさぬつもりとあひみえ候。さりながら気づき候ことは忠告いたさずてはあひ叶わずと、存じおり申し候」
その後、すぐに古高が新選組に捕らえられたことを知ると、もはや捨て置くことはできず、池田屋の集会に出席することにしました。小五郎は古高奪回の作戦に主題をしぼるつもりでした。


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