木戸孝允への旅はつづく 40


風雲篇(京都)

● 池田屋事変

古高逮捕の報は浪士たちばかりでなく、長州藩邸の藩士たちをも激昂させました。小五郎はこれを案じて、池田屋の会合には古高と親しい3人だけに出席を許し、藩邸にとどまる杉山松介に、今夜は門を厳重に閉じて人の出入りを禁ずるように命じたのです。小五郎は宮部などが新選組の屯所を襲うのではないかという懸念を抱いていました。浪士たちの過激な行動を抑えながら、彼らがある程度満足のいく古高奪還の計画も考えなければならず、今夜の会合は難しいものになりそうでした。
小五郎が三条小橋西入ルの旅館・池田屋に着いたのは6月5日の午後8時ごろでした。でも時間がすこし早すぎたようで、まだだれも来ていませんでした。それで彼は対馬藩邸に向いました。対馬藩ではある問題をめぐって内紛が起こっていたので、その解決のために大島友之允を訪ねたのです。そのため小五郎は時間を忘れて大島と話し込んでしまいました。その夜、池田屋に集まった志士たちは20人ほどで、すでに酒宴がはじまっていました。
新選組は最初に不審箇所をチェックしたあと、2隊〜3隊に分かれて市中を懸命に探索しました。近藤隊(近藤勇、沖田総司、永倉新八など)は鴨川の西岸側を、土方隊(土方歳三、伊木八郎、中村金吾など)と井上隊(井上源三郎、林信太郎など)は東岸側を北上しながら探索していましたが、池田屋で密会が開かれているらしいという情報を得たのは近藤隊でした。近藤は10名ほどの隊員を率いて午後10時ごろ池田屋に入りました。
「主人はおるか。御用改めである」
主人の池田屋総兵衛は驚いて梯子段の下から叫びました。
「皆さま、旅客しらべでござります」
言い終わるまもなく近藤が拳固でなぐりつけ、総兵衛はその場に昏倒してしまいます。近藤は抜刀して階段を駆けあがり、志士たち(佐幕派からみれば不逞浪士)を睨みすえて、
「無礼すまいぞ」
と叫びました。取り調べの体裁を整えたつもりでも、抜刀しているので、斬込みであることは間違いありません。近藤と共に二階にあがったのは沖田総司と永倉新八でした。不意を衝かれた一座は総立ちになり、相当あわてたようです。なんの準備もなく、太刀さえ手もとにおいていなかったのです。近頃は新選組の武勇を強調するために、不逞浪士らが抜刀して待っていた、という話に置き換えられていますが、まずありえないでしょう。階下でなにが起こっていたのか、誰も知らなかったわけですし、人数の点では明らかに不利だった近藤が、敵に抜刀させる余裕を与えるほど愚図愚図していたとは思えません。ここはやはり抜刀していたのは斬込みの準備を十分に整えていた近藤側のみと考えるのが自然で、最初に逃げようとする志士を斬ったのは沖田総司だったと永倉は語っています。

それ以後、池田屋の二階は修羅場と化しました。ほどなく土方・井上組も池田屋に到着し、立場の不利な志士たちは追いつめられて、次々と新選組に斬殺されていったのです。反幕派浪士の大物、宮部鼎蔵は、
「諸君、潔く自決せよ」
と叫ぶと、捕縛されることを恐れたのか、立ったまま割腹したと伝えられています。吉田松陰がもっとも愛した弟子のひとりで、村塾四天王にも名を連ねる吉田稔麿は、通説では池田屋の裏庭で沖田総司に斬られたことになっていますが、史実は、負傷しながらもその場を逃れて長州藩邸に走り、事件を告げてから再び槍を取って門外に出、加賀藩邸の付近で討死しています。享年24。同じく村塾生で藩邸内にいた杉山松介は池田屋の異変の報が入ると、「桂さんがあぶない」と血相変えて池田屋に駆けむかう途中、会津・桑名両藩の警備兵に包囲されて片腕を斬られ、藩邸に引き返しましたが、手当のかいなく翌朝死亡しています。享年27。
池田屋の事変で死亡したその他の志士は松田重助(熊本藩)、北添佶摩(土佐藩)、望月亀弥太(土佐藩)、福岡祐次郎(松山藩)、広岡浪秀(長州藩)などで、さらに脱出に成功した者たちの出身地をみると、鳥取藩、熊本藩、津山藩、播磨国、越後国など、新しい時代を築こうとする志士たちの熱い思いが狭い藩の垣根をこえて広がっていたことがわかります。新選組は不逞浪士たちの無謀な放火計画から京都を救った、火の海になるのを防いだと、池田屋斬込みの正当性を強調する者たちがいますが、どうなのでしょう。反幕的な会合を開いていただけで、まだなんの罪も犯していない者たちを問答無用に斬り殺すというのは、やはり『手柄ねらい』という感がしないでもありません。その後に起きた「禁門の変」で、実際に京都を火の海にしたのは幕府側でした。長州びいきの京都市民を守ることよりも、朝廷を利用して徳川独裁体制を守り抜くことのほうが大事だったという本音が表れてしまったようです。
いずれにしても長州藩はこうした浪士たちの無謀な計画(放火については、確たる史料の裏付けはない)には一線を画していました。ただ、藩主の冤罪を朝廷が認めて、追放処分を撤回することだけを求めていたのです。来島や久坂など長州過激派の目的も第一にはそこにありました。国許の周布政之助、京都留守居役・小五郎や乃美織江などの自重を求める努力で、かろうじて抑えられていた過激派の進発論は、突然入ってきた池田屋の異変の報によって、もはや沈静が不可能なほど沸騰してしまったのです。

一方、小五郎ですが、彼が事件当時、対馬藩邸にいたことは誰も知りませんでした。事件後に手記を著した乃美も、小五郎が池田屋にいたものと信じて書いているので、小説などでもこの間違った話が採用されているものがあるようです。
池田屋と対馬藩邸は家並一棟をへだてただけの距離にあったので、当然、外の騒動は藩邸内にいる小五郎たちの耳にも聞こえてきました。なにがあったのだろう、と人をやって調べさせると、すぐに池田屋が大変なことになっていると伝えてきたので、小五郎は驚き、剣をとって立ち上がりました。
「行ってはいけません!」
大島はすぐに小五郎の前に立ちはだかりました。
「いや、同志たちがやられている。私は行かねばならない」
「だめです。もう周囲は幕兵によって隙間なくかためられています。あなたが行けば無駄死になる。いま、桂さんが死んだら、いったい誰が過激な志士たちをまとめていくのですか」
「……」
「我々の志はまだ遂げられていない。どうか大事のまえの小事と思って、忍耐してください。その大事を遂げるまで、あなたは生きなければならない人なのです」
おそらく、こんな会話が二人の間で交わされたでしょう。まさに天が彼を生かしたのか、このとき小五郎はあやうく難を逃れることができましたが、この後、小五郎にも長州藩にも最大の試練が待ち受けることになるのです。


 (註) 池田屋騒動の経緯には諸説あり、その一部を慎重に選択して書いていることを、お断りしておきます。


前へ  目次に戻る  次へ