木戸孝允への旅はつづく 4


青年時代(江戸)

● 小五郎、錬兵館の塾頭になる

福井兵右衛門嘉平を祖とする神道無念流は戸賀崎熊太郎、岡田十松(「撃剣館」道場主)を経て斎藤弥九郎に継承されました。水戸藩の藤田東湖、田原藩の渡辺崋山も岡田門下であり、当初、斎藤道場は水戸藩との繋がりが深かったのです。江戸三大道場は「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と称され、斎藤道場の稽古は頑丈な防具と重い竹刀を用いた実戦さながらの荒稽古でした。
ここに「突きの鬼歓」の異名をとる六尺ゆたかな大男がいました。弥九郎の三男歓乃助です。父親譲りで腕が立つうえに、20歳という若さゆえか、その稽古はずば抜けて荒っぽかったので、彼との立合いを避けようとする門弟たちもいました。江戸に来てからの小五郎は、徳川幕府直轄の巨大な経済都市の雰囲気に刺激されたのでしょうか。萩にいた頃とは見違えるように積極的な青年に変貌していました。鬼歓との稽古ではなんどもしたたかに打ち据えられ、身体中があざだらけになっても、毎日の稽古を怠ることはありませんでした。その精進の成果があってか、小五郎の剣の腕はめきめきと上達し、弥九郎にも注目されるようになりました。長州藩士のなかでは神道無念流の気迫の剣技を誰よりもはやく習得したのです。でも、弥九郎が小五郎に注目したのはそれだけではありませんでした。彼の性質の穏やかさ、素直さは、和平を志向する道場訓をそのまま映す鏡のようにみられたようです。

  • 武は戈(ほこ)を止むるの義なれば、少しも争心あるべからず。

    兵は凶器といえば、其身(そのみ)一生用ゆることなきは大幸というべし。

弥九郎は小五郎こそ、己の武技を誇ることなくその剣心を深く理解し、実行し得る者と見定め、翌嘉永6年には、入門後一年にも満たない小五郎を練兵館の塾頭に抜擢しました。桂小五郎の名が江戸の剣客たちに知られるようになる始まりです。
神道無念流には「天下のために文武を用ゆるは治乱に備うる也」という道場訓があって、「武」のみならず「文」にも秀でることを重視していました。つまり、剣術一辺倒ではなかったわけで、門弟たちにとって斎藤道場は時代の新知識を習得し、活発に議論をする場でもありました。弥九郎は渡辺崋山、高野長英、高島秋帆(しゅうはん)など進歩的な洋学者と交際していましたし、水戸学を学び、尊皇の思想を持っていたと思われます。したがって、小五郎が弥九郎から受けた感化は大きかったと言えるでしょう。

嘉永6年(1853)といえば、幕末史において重大な事件が起こっています。6月3日、米国のペリーひきいる4隻の艦隊が三浦半島の浦賀沖に出現し、幕府に開国を迫りました。驚愕した幕府は江戸湾周辺の警備を諸藩に命じます。小五郎は藩主毛利慶親の命をうけて江戸郊外の大森海岸を守備することになりました。小五郎の海防意識は目前の現実によって強烈に目覚めてゆくのです。
ペリーは開国を求める米国大統領の親書を幕府にわたすと、翌年その返事をもらうために再訪することを告げて、いったん日本を去りました。相手は来年も来ると言っているのですから、海岸の防備を固める準備をしなければならないと、当然長州藩は考えました。そのためには海岸線の測量も必要になってくるでしょう。ところが幕府は「撤兵せよ」という命令を下したのです。外様藩などに江戸湾周辺の状況を探られたくない、ということなのでしょう。国を守ることより、徳川幕藩体制を守ることのほうが大事だったようです。小五郎が幕府の姿勢に疑問を感じ出したのは、このときからだったのかもしれません。

当時の十二代将軍家慶はペリーが日本を去ってまもない6月22日に亡くなってしまいます。後継の十三代家定は病弱なうえに知能に問題があったため、老中首座の阿部正弘が政務を任され、徳川幕府始まって以来の国難に対処しなければなりませんでした。開国を受け入れるか、拒否するかは日本全体の対外問題だったので、彼は全国の諸侯に意見を求めることにしました。こんなことはもちろん初めてのことです。幕府に対して意見を自由に言えるということで、日本中がこの問題で沸き立ちました。それは幕府独裁の支配体制が崩れてゆく兆候でもありました。当然、小五郎も無関心ではいられません。攘夷か、開国か、この時点では彼も迷っていました。
「われいまだにいづれが是か、いづれが非かを知らず」
と6月18日の日記に書いています。自分の無知無学に気づき、悄然とするのです。その後、まもなく小五郎は幕府の伊豆韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門に師事して、洋式兵術を学ぶことになります。

<補記>  米国大統領フィルモアの親書

三か条の要求

  1. 日本沿岸で遭難または悪天候で避難した米国船員の生命、財産の保護。
  2. いくつかの港を開き、米国船舶に薪水、食料を供給する。また、日本沿岸の島に貯炭所を設置する。
  3. 米国船舶が積荷を売却または交換するため、日本の港を開放する。


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