木戸孝允への旅はつづく 41


風雲篇(京都・山口)

● 禁門(蛤御門)の変(1)

長州藩に池田屋異変の報を伝えたのは有吉熊次郎(イギリス公使館焼討ち実行者の一人)で、飛脚に変装して京都を脱出、山口には6月12日夜に着きました。この一報で、周布などが唱えていた慎重論は吹っ飛んでしまいます。
「池田屋事変の報山口に到り、上下驚愕憤慨すること甚だしく、少壮気鋭の士は大いに奮起し、その勢いほとんど制すべからざるものあり」(松菊木戸公伝)
6月14日には周布(当時は麻田公輔を名乗っていた)が逼塞を命じられ、もはや制止する者はいなくなりました。これより前、周布は酒に酔ったまま野山獄に入り込み、一説には抜刀して番人を脅かして追い払い、脱藩の罪で幽囚中の高杉晋作を大声で呼ばわるという奇行をおかしていました。こんな大変な時期に晋作が獄にいることが腹立たしかったのでしょうか。「晋作よ、はやく出て来い。はやく出て来て、俺を援けてくれ」という切実な思いを伝えたかったのかもしれません。このために周布は役職を離れて閉居していたのですが、池田屋の変後に改めて50日間の逼塞を命じられたのです。
周布を封じ込めた同日に進発論が採用され、翌15日には来島又兵衛が森鬼太郎の変名で遊撃隊400人を率いて山口を発しました。翌日、家老福原越後、久坂義助(玄瑞)、寺岡忠三郎、それに真木和泉は子息菊四郎を連れて出撃。国司信濃、益田右衛門介の2家老もあとに続きました。
小五郎は京都から久坂に手紙を書いて、「京都の藩邸が焼討ちされるかもしれないが、自分たちは死を覚悟しているので、正藩合一の機が熟するまで隠忍自重して、出兵のことは思いとどまってほしい」と最後の制止を試みましたが、この手紙が届いたころには、すでに山口では出兵の決定が下されていました。

京都では幕吏や新選組が叛徒一味の重要人物として小五郎の居所を探しまわっており、彼の身にも危険が迫っていました。対馬藩邸、大黒屋、幾松のいる吉田屋などを転々と移動し、支藩の同志にも自分がまだ京都に留まっていることを、藩邸内の人たちにさえ内密にしてほしいと頼んでいました。大黒屋の主人への密書は細く切り裂いて番号をつけ、はたきに仕立てて使いの者にもたせました。また、彼は諸藩の味方を増やそうと、懸命に政治活動を続けていました。因幡、対馬、備前、津和野の留守居役に働きかけ、この4藩がほかの十数藩に長州の援護を呼びかけ、親長州派の公家たちも、攘夷の実行を渋っている幕府の因循を糾弾する文書を朝廷に提出しました。
そのころ、三本木の吉田屋を出て寺町丸田町付近を歩いていた小五郎は、突然幕吏に取り囲まれ、奉行所に連行されそうになりました。最初はおとなしくしていた彼は、途中で便意をもよおしたと告げ、厠のまえにきたので袴を脱ぐふりをしました。幕吏の油断をみてとると、突然脱兎のように走って対馬藩邸に逃げ込み、深夜になってから大黒屋にもどるという危ういめにあっています。

一方、長州の軍勢と浪士隊ですが、福原越後隊が6月24日に伏見の長州藩邸にはいりました。益田、国司、遊撃、浪士の各隊は淀川をさかのぼって山崎に至り、天王山付近に陣を敷きました。27日には国司隊と遊撃隊が移動して、天龍寺にはいりました。伏見街道、西国街道、三条通といった京都に通じる街道を押さえる布陣でしたが、すぐに動こうとはしませんでした。彼らは幕府や朝廷に長州藩主や七卿の赦免を嘆願していたのです。
中山忠能や正親町三条は松平容保の行動を糾弾して、長州藩を赦免するように主張しましたが、一橋慶喜が強硬に反対し、薩摩の西郷吉之助(隆盛)も慶喜を支持しました。薩摩藩は長州の勢力が再び京都で盛んになることを嫌ったようです。徳川幕府はもはや、朝廷の権威を借りなければ存続が不可能なほど弱体化していたので、長州と朝廷が結びつくことを一番恐れていました。そこで長州藩士を天皇に近づかせないように画策しました。「政治のことはすでに幕府に委任しているので、今後、朝廷への請願は一切受けつけない」という朝命がすでに長州藩に対して下されていたのです。
この朝命が進発派を刺激したことは明らかで、池田屋の変が火に油をそそぐかたちになったようです。小五郎はこの長州藩に不利な形勢を逆転させるためには、天皇を直接的な守護職を務める会津藩から引きはなす以外にないと考えました。ところが会津がわも必死ですから、天皇を奪われまいと、本来なら御所の外で警衛するところを、勅命を奉じて御所内に駐留することに成功しました。真木和泉守は朝廷への嘆願をよそおいながら、兵を潜入させて御所を乗っ取り、会津藩を孤立させる計画を立てていました。しかし会津藩主が御所内に居座っていてはこの計画は実行できず、天皇に動いてもらう以外に両者を引きはなすことは不可能です。小五郎は有栖川宮熾仁(たるひと)親王に頼んで、遷座を奏上してもらい、有栖川邸を守備する因幡藩と協力して天皇を比叡山にお移しする、という計画を練りはじめました。
諸藩には長州に同情する者たちも多かったので、非常に危険な計画ではあるけれど、うまくいけばこの戦いに勝てると小五郎は考えていました。現に因州(鳥取)藩とはこの作戦で盟約していました。少なくとも小五郎は使者にたった者の話から、共同作戦の命令が因州藩兵の指揮者に伝わっているものと信じていたのです。

長州軍が進軍を開始したのは7月18日の夜でした。長州がわからの赦免の嘆願が、禁裏御守衛総督・一橋慶喜の「まず長州藩が撤兵せよ」という主張により、最終的に拒絶されたからです。伏見の方角から砲声が轟いたころ、小五郎は80人ほどの兵を率いて因州藩邸に入っていました。総指揮官は小五郎、参謀役は田村甚之允、馬屋原二郎、参謀長は佐々木男也、軍艦は時山直八でした。


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