木戸孝允への旅はつづく 43


風雲篇(京都)

● 禁門の変(3)−久坂玄瑞自刃

真木和泉守が500人の兵とともに堺町門に到着したのは、小五郎が隊を解散して、馬屋原とともに鳳輦を待っているときでした。17日に男山八幡宮で開かれた最後の軍議では、世子元徳のひきいる本軍が到着するまで待つべきである、と久坂は主張したのですが、直ちに進撃すべし、とする来島や真木の強い言葉に押し切られてしまったのです。
堺町門では越前藩兵と激戦になり、久坂玄瑞は寺島忠三郎、入江九一らとともに鷹司邸に立てこもって応戦しました。そのうち鷹司邸は会津、桑名など諸藩の兵に囲まれて、危うい状況になってきました。久坂は参内する鷹司父子に朝廷での取りなしをしてもらおうと、「ぜひお供をお許しください」と頼んだのですが、聞き入れてもらえませんでした。
やがて幕府軍の攻撃が激化してきたので鷹司父子は脱出し、久坂は一度は抜刀して敵中に斬り込みましたが、流れ弾に当って左腿を負傷してしまいます。やむをえず鷹司邸に引き返しますが、邸内には大砲が撃ち込まれる事態となり、久坂はもはや脱出の不可能を悟って死を覚悟します。「自分をおいて諸君は脱出してほしい」と同志たちには告げ、奥にはいると寺島と入江にも、
「今日のありさまを両殿さまに伝えて、若殿さまのご出向をおとめしてほしい」と頼みました。しかし寺島は、どうしても久坂といっしょにここで死ぬと言い張ります。それで、久坂は入江にその役目を託しました。入江は立ち去るまえに、久坂の髪の乱れに気づいて、櫛を取り出し彼の髪を整えてやりました。さあ、これでいい――最後に二人は目と目を見交わします。同じ松下村塾で学んだときの思い出が一瞬、二人の頭をよぎったでしょうか。胸にこみ上げる熱い想いをもはや語る余裕はありません。互いに光る眼で今生の別れを告げると、入江は槍を取ってその場を立ち去りました。
そのとき、会津兵が邸内に侵入して火を放ったので、邸のあちこちから火の手が上がりました。入江は邸の通用門を開かせて、敵中に躍りこみ数名を倒しましたが、敵の槍で目を突かれてしまいます。近くにいた高杉百合三郎が彼をかかえて邸内にもどり、築地のそばに座らせました。すぐに河北義次郎が走りよって「介錯は」とたずねると、いいや、早く逃げてくれ、というように手を振ったので、河北は入江の死を見とどけずに去りました。入江九一、享年28。
一方、久坂は鷹司家の侍に多人数で騒がせたことを詫び、軍用金を取り出して渡しました。その後、
「久坂、もうやろうか」と寺島が言うと、
「もうよかろう」と久坂が応じ、諸肌を脱いで刀を手に取りました。二人の最期は、互いに刺し違えたのか、どちらかが先に相手を介錯したのか、ともに自ら切腹して首を斬ったのか、もはや誰も知るすべはありません。久坂玄瑞、25歳(通説)、寺島忠三郎、22歳。
そのとき小五郎は鷹司邸の方角から大砲の轟音が轟くのを聞いて、走り出しました。仙洞御所のあたりで敵兵に襲われ刃を交えましたが、なんとか切り抜けて堺町門までたどり着くと、すでに鷹司邸は火炎に包まれようとしていました。小五郎は朔平門に行って、もはや鳳輦が御所から出ないことを確かめると、天王山に向って走り出しました。京での戦いに敗れたときは天王山に集合する約束になっていたからです。しかし、途中で天王山の兵はすでに散り散りになっているという情報を耳にして、再び京都に引き返したのです。長州の敗兵はみな大阪、兵庫に走りましたが、小五郎は京都に留まってなお長州藩の冤罪をはらす工作をつづけるつもりでした。

藩邸に残っていた乃美織江は堺町門付近に火の手が上がるのをみて、すべてが終わったことを悟りました。そのうち弾丸がこちらにも達してきたので、藩邸に火を放って長州に逃れました。大阪の藩邸も没収され、留守居北條瀬兵衛は男女50人とともに、海路帰国しました。
真木和泉守は残兵200人をまとめて天王山にもどりましたが、積極的な挙兵派だったことに責任を感じていました。一同には長州に落ちて再挙を期すように告げると、親しい者十数人と山頂に踏みとどまり、陣屋に火をかけ自刃して果てました。享年52。真木の辞世の歌は、
 大山の 峰の岩根に埋めにけり わが年月の大和魂
そしてもう一人、福原越後の部隊に属していた小五郎の養子勝三郎も命を落としました。この部隊はいったん退却して、負傷した福原を後送したあと、再び竹田街道を北上しましたが、彦根藩兵に挟撃されて敗走。勝三郎は逃れた船を敵兵に見つけられ、もはや逃れられないと、船中で覚悟の自刃でした。享年17。12人の自殺者のうち最年少だったようです。

鷹司邸から燃え広がった激しい火炎は、のちに長州の残党がりのために幕府軍が民家に放った火と砲撃によって、さらに煽られて、またたくまに京都の町を焼き尽くしていきました。


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