木戸孝允への旅はつづく 44


風雲篇(京都・丹波)

● 試練のとき

京都にとどまった小五郎は、今や人生で最大の試練のときを迎えようとしていました。池田屋の変後には彼を保護してくれた大黒屋(長州藩御用商人)はすでに焼討ちにあい、主人の今井夫婦、妻の老母、5人の子どもらは数人の下男下女とともに逃亡していました。長州兵や京都の長州派勢力を一掃しようとして、幕府がわが民家に放った火は、またたくまに京都全域に燃え広がり、3万軒の家屋が焼失する大火となりました。いわゆる「どんどん焼け」と呼ばれた火災で、この火災のために大宮六角の牢獄に収容されていた平野国臣、古高俊太郎、長尾郁三郎など33名の志士が、破獄の恐れを理由に斬殺されてしまいました。この時代、牢に火災が迫れば後日もどってくることを条件に囚人を解放することになっていたのですが、狼狽した牢役人が処刑してしまったのです。のちにそのことを聞いた松平容保(京都守護職)はさすがに驚いて、関係者を処罰したようです。平野は天誅組とともに生野に挙兵したあと、捕われてこの六角獄に幽閉されていました。辞世の句は、
 みよや人 嵐の庭のもみちはは いづれ一葉もちらすやはある

鴨川の河原は焼け出された罹災者の群であふれていました。その群の中に粗末な身なりをしてまぎれていた年は30ぐらいの一人の男――すでに幕府がわの探索は厳しく、「長州人をかくまった者は同様に朝敵である」という触書が京都市中に出まわっており、とりわけ小五郎は尊攘志士の大物として、幕吏や新選組にとって格好の獲物だったに違いありません。小五郎の身辺には危険が迫っていました。そのころ、小五郎の想い人幾松は懸命に小五郎の行方を捜していました。この時期の小五郎と幾松のロマンチックな逸話は現在も語り継がれていますが、幾松がどこで、どのように小五郎と遭遇したのか、あるいは誰かが幾松に彼の居所を知らせたのか、そこらへんの事情ははっきりしません。
とにかく彼女は小五郎が今出川の東(現賀茂川大橋の付近)の掘立小屋に乞食のような身なりで潜んでいることをつき止めます。もはや京都で政治工作をすることは不可能でしたが、脱出することもできなかったのです。あまりに変わり果てた小五郎の姿を見て、幾松は涙を流しますが、いつまでも泣いてばかりはいられません。なんとか小五郎の命を救うため、食事を作って運んであげるのですが、ほどなく幕府の監視の目が光るのに気づいて、母親にその役目をたくします。小五郎はもはや自由に行動できない状態だったので、食事を運んできた幾松の母親に、
「広戸甚助を呼んでください」と頼みました。
広戸甚助は但馬出石の出身で商家の息子でしたが、博打好きだったことからなにか問題を起こしたのか、出石にいられなくなって、この時期は対馬藩の多田荘蔵の使用人になっていました。幸い長州藩邸から出た火は燃え広がるまえに鎮火されたので、隣の加賀藩邸や対馬藩邸は火災を免れて無事でした。小五郎は甚助を可愛がって、因州藩士の家に弾薬を運ばせるなど、きわどい用事も頼んでいたようです。そんなこともあって、幕府の役人に逮捕されることを恐れたのか、最初、彼は幾松の母が出した使いにも応じようとしませんでした。しかし、母親自身が藩邸に忍んできて助力を請うと、甚助も意を決して小五郎の居所を尋ねました。母親はよろこんで、甚助を小五郎が潜んでいる掘立小屋に案内しました。小五郎は対馬藩邸では林竹次郎という変名を使っていましたが、林竹次郎が桂小五郎であることを甚助は知らされていたのです。
小屋の中でむしろをかぶって寝ているみすぼらしい身なりの小五郎を見て、甚助は驚きました。あの長州藩を代表する凛とした志士が、このような境遇に身を落としていることが、甚助には信じがたかったのです。
「やあ、甚助。元気か」
「へい」
心の動揺をかくして、かろうじて答えました。
「京都を脱出したい。どうだ、お前の郷里、出石へ連れて行ってくれるか」
「へい。おまかせくださいませ」
甚助の表情には固い決意が読みとれました。
――この方のやさしさは格別だった。身分差を感じさせないほど親しく対してくれた。彼はこれまでの小五郎との交流を思い出します。なんとしても、この方を救わねばならない。だが、はたして長州の桂小五郎と見破られずに京都から脱出することができるだろうか――。商人に化けさせるにしても小五郎の風貌は立派で、目立ち過ぎたのです。姿を隠していくしかない。それには駕籠に乗せる必要があるな。そうだ、病気にかかった船頭ということにしよう。
小五郎を船頭夫に扮装させ、名を宇右衛門と変えて、ひそかに京都を発って丹波路に出る老の坂に向いました。ここから二人の逃避行がはじまります。老の坂は亀山松平藩の兵がかためていました。見咎められはしまいか? 甚助は心臓の鼓動が高鳴るのを意識しました。だが、まさか長州藩士がこちらの方角に来るとは予想していなかったらしく、別に不審に思われることもなく無事とおり抜けることができました。

出石に入る国境にはすでに出石藩の吏員が派遣されていて、関所を設け、通行人を検察していました。甚助自身が脛に傷をもつ身だったので、自分ごと小五郎が捕らえられることを恐れて、小五郎の駕籠を先に通させ、自分は関所の手前で様子をうかがうことにしました。ところが、駕籠は怪しまれて、引き止められてしまいます。駕籠かきがすっ飛んできて、甚助に助けを求めてきたので、彼は覚悟を決めて、関所として使われている農家までやってきました。そこには二人の武士がすわっていました。
「駕籠のなかの男は何ものか?」
「訓谷村の船頭でございます」
偶然、一人の武士が甚助と顔なじみで、彼の説明をよく聞くと、
「その方が身元を保証するなら問題はなかろう。通るがよい」
と言ってくれました。出石では甚助の商家はかなり有名だったのです。こうして虎口の難を逃れると、途をいそぎ、夜陰に乗じてようやく郷里出石町にたどり着くことができました。


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