木戸孝允への旅はつづく 45


風雲篇(江戸・水戸・越前)

● 天狗党の悲劇

 禁門の変に敗れ、朝敵の汚名をきせられた長州藩は、それ以後、藩存亡の危機のなかで過酷な運命に翻弄されてゆきます。京都、大阪ばかりでなく、戦闘とは直接関係のない江戸の長州藩邸も没収され、上屋敷(外桜田)と下屋敷(麻布)にいた藩士たちは幕府に強引に勾留されてしまいました。悔しさのあまり、咽喉を突いて抗議の自決をした藩士もおり、また、女性も3人が自害して果て、3万6千余坪の広大な敷地内に建てられた建物はすべて一日のうちに取り壊されました。藩士たちは掛川、大垣新田、沼津、牛久保など諸藩の江戸屋敷に預けられましたが、その扱いは過酷をきわめ、慶応2年(1866)5月に釈放されるまでの2年間に51名が亡くなっています。
 また、長州へ逃げ帰る途中で幕府方に見つかって、捕虜となった60数名の長州藩士も非情な扱いをうけ、半年余のあいだに刑死者6名、牢死者39名にもおよびました。一説にはひとり、またひとりと毒殺されたともいわれ、彼らの遺骸は犬猫同様に刑場の片隅に無造作に埋められたようです。

 こうした悲劇は長州一藩にとどまりませんでした。尊攘派の総本山ともいうべき長州藩の衰退により、各藩の勤皇党は壊滅的な打撃をこうむることになったのです。すでに「八・一八政変」以降、獄中にあった土佐勤皇党の指導者・武市瑞山(半平太)は翌年閏5月には切腹を命じられました。その一日前には「人斬り以蔵」の異名で知られる岡田以蔵が打ち首、梟首されています。加賀藩では世子慶寧(よしやす)についていた中下級武士を中心とした勤皇派がいっせいに粛清されました。
 また、同年3月に筑波山に挙兵した若干23歳の藤田小四郎(藤田東湖の四男)率いる「天狗党」の悲惨な末路も、長州藩の没落に大きな影響をうけたといえるでしょう。小四郎は東西呼応の攘夷挙兵計画を実現するため、山国兵部(71歳)を説得して軍師に、弟の水戸町奉行田丸稲之右衛門(62歳)を主将に迎え入れました。しかし、彼らと対立する諸生党(門閥保守派)が水戸城下に残っていた天狗党の家族を虐待したため、鎖港を目的に横浜を目指していた天狗党は計画を変更して水戸城下に向いました。ところが諸生党は幕命を奉じて彼らを水戸城下に入れなかったので、府中(石岡市)、小川、潮来などの周辺地域で両陣営は激突することになりました。
 この間に京都では禁門の変が起こって「長州征伐令」が出されており、水戸の尊攘派にとって不利な状況が生じていました。水戸藩主徳川慶篤は国許の内戦を憂慮して支藩の宍戸藩主・松平頼徳を名代として派遣するのですが、この中に武田耕雲斎がいました。諸生党を指揮する水戸藩家老・市川三左衛門らは尊攘激派である武田らの城下入りを拒んだので、武田勢は近くの那珂湊に布陣して城兵と交戦することになりました。7月、8月まで尊攘派は各所で善戦しましたが、9月になると幕府の追討軍が勢力を増し、諸生党がこれに加わって尊攘派を追いつめてゆきます。包囲されながらもよく持ちこたえていた尊攘軍でしたが、ついに10月後半には一部の部隊が投降し、彼らは常陸、下総、安房などの諸藩へ預けられ、刑死者、病死者などの犠牲者が増えていく悲惨な状況におかれました。
 投降を拒否した武田耕雲斎らは藤田小四郎の筑波勢と合流し、尊攘の大義を水戸藩出身の禁裏守衛総督・一橋慶喜を頼って朝廷に訴えようと京都を目指します。その数およそ一千余、折りしも第一次征長軍が長州を包囲しているさなかのことでした。中仙道から美濃、越前新保へたどりついたところで、幕府追討軍の総大将が一橋慶喜であることを知った尊攘軍は、最後の希望を断たれて急速に士気をうしない、12月11日、越前・加賀藩に投降することになったのです。天狗党の勤皇の志に感じた加賀藩は寛大な処分を乞う嘆願書を慶喜に提出しますが、幕府が行った処分は過酷なものでした。
 幕府から派遣された田沼意尊(おきたか)は死罪352人、島流し137人、水戸藩渡し130人という処分を下しました。安政の大獄(死罪8人)の比ではないきわめて残酷な処分に、処刑の実行を命じられた藩のなかには拒否する藩(福井藩など)も出たほどでした。しかも処刑は窃盗などの罪を犯した町人処刑所で行われるという屈辱的なもので、のちにその様子を聞いた大久保利通は「実に聞くに堪えざる次第なり。これをもって幕府滅亡の表れと察せられ候」と日記に記しています。
 さらに、処刑は本人ばかりでなく親族にもおよび、なかでも水戸の武田耕雲斎の家族は妻や子、孫にいたるまで男子は全員が死罪となり、3歳の幼児も無理やり斬殺されてしまいました。世間の批判の高まりに、幕府ものちには遠島者の罪を減じて、水戸に帰国させることに決したようです。

辞世の句:
武田耕雲斎 「雨あられ 矢玉のなかはいとはねど 進みかねたる駒が嶺の雪」
藤田小四郎 「かねてより おもひそめにし真心を けふ大君につげてうれしき」
山国兵部 「ゆく先は冥土の鬼と一と勝負」

 また、諸生党によって斬首された田丸の次女八重(17歳)も、はっとするような辞世の句を残しています。
 「引きつれて 死出の旅路も 花ざかり」

 勤皇思想の家元である水戸藩の尊攘派と諸生党の内部抗争は明治元年までつづき、双方が血生ぐさい復讐戦をしたために人材が枯渇し、新政府にはひとりの要人も送り出すことができない悲劇的な運命をたどる結果となりました。


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