木戸孝允への旅はつづく 46


風雲篇(但馬・出石)

● 出石にて

 出石は京都の北西約200キロにあり、現在の兵庫県(但馬)出石郡出石町で、室町時代には但馬国守護・山名氏の本拠地として栄えました。江戸中期に仙石氏が入り、当初は5万8千石でしたが、のちにお家騒動(仙石騒動)で3万石に減封されています。三方を山にかこまれ、出石川に沿って耕地がひらけた盆地で、小京都と呼ばれる小さな城下町です。
 出石町に着くと、甚助はひとまず小五郎を寺坂の茶屋に残して、弟の直蔵に事情を告げに行きました。直蔵も対馬藩邸に出入りしていたので、小五郎を知っていたのです。二人は相談して、まず町内の縁戚にあたる角屋喜作の家に小五郎を落ち着かせ、13歳の妹おすみに彼の世話をさせることにしました。小五郎がこのとき帰藩しなかったのは、できるだけ京都に近いところにいて、情報を収集し、なんとか藩の劣勢を挽回したいという思いがあったからなのでしょう。若いころから彼は江戸や京都を拠点に尊攘活動を続けており、ほとんど長州にはもどっていなかったし、またもどってもすぐに藩外へ出たがり、最後には自分の希望を通していましたから、この選択は彼には自然のことだったようです。狭い藩内で雑務に追われ、京都や諸藩の情報から遠ざかるよりも、たとえそこがさらに危険な場所であっても、自由に活動できる状況に身をおくことが、小五郎にとっては一番大事なことだったのでしょう。
 しかし小五郎のおかれた状況はそれほど甘いものではありませんでした。まもなく幕府の小五郎探索の手が出石にも伸びてきて、身動きがとれなくなってしまったのです。商人に変装して生野の銀山に入り、そこで局面打開の糸口を探るか、大和に潜行するつもりだったのですが、その実行も難しい状況です。また、藤田小四郎の筑波党に加わろうとも考えていたのですが、それも到底かないそうもありません。それどころか、会津、桑名の藩士2名が探索のために出石に来た、という噂に追い立てられるように、広戸家の檀那寺である昌念寺や、同家の親戚の家や、ときには湯島(現在の城崎)まで避難しなければなりませんでした。湯島では松本屋(現在の「つたや」)という宿に泊まったのですが、女将は小五郎をひと目見てただ者ではないことを察したらしく、裏二階の目立たない部屋に彼を導きました。その後、宿の娘のたきが彼の世話をしているあいだに親しくなり、やがて小五郎の子を身ごもることになります(のちに流産する)。すべての行動を封じられ失意と焦燥のなかで、たきとの逢瀬は小五郎の唯一の慰めだったに違いありません。それにしても素性のわからぬいわくありげな男に潜居場所を提供し、大事な娘の婿にもと思われていたとしたら、よほど小五郎は母娘に好感をもたれていたのでしょう。
 また、昌念寺に潜伏していたときには、出石藩士の堀田反爾というものと知り合いになり、しばしば二人で碁を打っています。町人を装っても小五郎の風貌には人目を引く凛々しさがありましたから、堀田もただの町人ではあるまいと思っていたようですが、強いて詮索する様子は見せませんでした。明治の世になってから、堀田は東京に出て小五郎を訪ねています。明治3年7月の小五郎の日記にいわく、
「八日朝、大久保参議来談、堀田反爾来る。但州出石藩の人、余七年前、京都戦争後、しばらく出石に潜伏す。この時最善寺(昌念寺か?)に相会す。しかるといへどもその時余の長州人たるを知らざるなり」
 出石藩は小藩で、小五郎の正体をうすうすわかっていても、見て見ぬふりをしていたのかもしれません。あまり幕府と雄藩との争いには巻き込まれたくなかったらしく、小五郎にはそれが幸いしたようです。一方、甚助のほうは、小五郎がなにもしないでいるのはかえって怪しまれると思い、親戚の重兵衛が所有する宵田町の家を借りて、商売をさせることにしました。小五郎のここでの変名は広江孝助だったので、「広江屋」の商号で竹細工やむしろや米を売る荒物屋を年末には開店することになりました。甚助・直蔵兄弟の両親とも対面し、引きつづきすみが小五郎の世話をしたので、彼の生活もようやく落ち着いてきました。すみは毎日野原に芹を摘みにいき、芹と油揚げを混ぜたものを小五郎に食べさせ、すみの両親も彼を気に入っているようでした。
 暇なときには近所の子供たちをあつめて花札を引き、勝負がおわると菓子をもたせて帰しました。そんなわけで子供たちにも慕われ、独り者の美男子が店主だというので、女たちも買物にあつまってきてお店は繁盛しました。そんな中でも長州藩のことが頭から離れない小五郎は、直蔵に「長州から塩を輸入して一手に売りさばく方法を考えてほしい」と話しました。長州の特産品は蝋と紙と塩で、塩田が三田尻周辺に多くありました。小五郎の計画は塩の販路を拡大するだけでなく、長州の船を出石川に絶えず出入りさせることによって、山陰道をいつでも切断することにありました。討幕派の諸藩連合に失敗した今となっては、長州藩単独で幕府を倒す以外にないと小五郎は考えていたのです。しかし、彼自身が自由に動けない状態では、この計画を進めることは不可能でした。小五郎は焦燥をつのらせていきます。
もうひとつ、彼の頭から離れない心配事は、京都にいる幾松のことでした。前年から小五郎は幾松を気にして、その安否をなんとか確かめてほしいと甚助に手紙で頼んでいました。「おもうほど おもひがひなき うきよかな」とその心情を吐露し、「京のこと間違わぬように頼みます」と追伸にも書き、憐れと思えるほどに心配しています。彼は直蔵にも手紙を書いて、「野にたおれ、山にたおれてもさらさら残念には思いません。ただただ雪の消えるのを見てもうらやましく、ともに消えたい心地がいたします」と世をはかなんで、

さつきやみ あやめ分かたぬ 浮世の中に
なくは私と ほととぎす

と京都に潜伏中につくった都都逸を添えています。
幸い、甚助は11月に京都に行って、幾松が対馬藩に保護されていることを確かめることができました。こんなふうに小五郎が出石で悶々と過ごしていたころ、長州の情勢はあわただしく動いていました。


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