風雲篇(山口)
● 四国連合艦隊の馬関攻撃
元治元年(1864)8月5日、英仏蘭米の連合艦隊は攘夷の最大勢力である長州藩を撃破して、日本全国にもはや鎖国政策の不可能なことを思い知らせようとしていました。総司令官はイギリス海軍中将キューパー、副司令官・フランス海軍少将ジョーレス、軍艦総数17隻、総砲数288門、兵員総数5014名で、内訳は以下のとおりです。
国名 |
軍艦 |
砲 |
兵員 |
イギリス |
9隻 |
164門 |
2850名 |
フランス |
3隻 |
64門 |
1155名 |
オランダ |
4隻 |
56門 |
951名 |
アメリカ |
1隻 |
4門 |
58名 |
合計 |
17隻 |
288門 |
5014名 |
(註) アメリカは仮装艦
さらに万一の場合の後続部隊が横浜(英艦4隻、米艦1隻)、長崎(英艦1隻)に待機していました。これに対して長州がわは総砲数120門(前田、壇ノ浦に配置)、兵力およそ2000名でした。こうして比較してみると、最初から戦力の差は歴然としています。
脱藩の罪で入獄、その後親族預かりとなっていた高杉晋作は、8月3日に許されて、軍務掛、ついで政務掛となり、伊藤、井上とともに小郡出張を命じられました。常備兵、農兵隊、奇兵隊以下諸隊も各部署に配備され、臨戦態勢が整えられていきました。
関門海峡は潮の流れが速く、1日に4度も流れが変わります。連合艦隊は潮の流れが一時止まって、逆流する時刻を待っていました。午後2時ごろ、潮流の変化を見とると艦隊は動き出し、攻撃態勢の陣列を整えました。4時近くになって砲撃が開始されると、長州がわも一斉射撃で応戦し、一時はあたり一帯が白煙に包まれました。でも折から微風が吹いて煙を一掃したので、外国艦隊はすかさず砲撃を再開しました。百雷が一時に鳴り響くようなすさまじさの中、長州がわの砲台はたちまち次々に破壊されていきました。一部の陸戦隊は上陸して前田砲台を占拠し、これを破壊する一方、イギリスの一支隊は丘陵をよじ登り、長州がわの守兵と遭遇して小戦闘におよびました。
翌日も交戦はつづき、艦隊からはおよそ2000の兵が上陸し、長州軍と陸上戦を繰り広げましたが、旧式銃で防戦した長州兵は太刀打ちできず、7日までには壇ノ浦の砲台もほとんど破壊され、連合軍は大砲を戦利品として持ち帰りました。連合軍の負傷者は60名、戦死者は12名(「赤間関海戦紀事」による。記録により若干の相違あり)、長州がわの負傷者は27名、戦死者13名で、死傷者がもっとも多かったのは最前線で果敢に戦った奇兵隊でした。正規軍の大組隊は砲弾、小銃の大なる響きに驚いて逃げ去る隊あり、あるいは後方に陣したまま動かなかったりで、積極的に戦おうとしませんでした。
8月7日には世子定弘をむかえて、井上が代官となっている小郡代官所で会議が開かれました。前田孫右衛門、毛利登人、山田宇右衛門など藩の要路は「このままでは国が滅びてしまうから、和議をしよう。和議をして、幕府の征討軍にあたらなければならぬ」と言って、井上に和議交渉をやるように求めます。井上は憤慨して「徹底抗戦すべし!」と反対しました。
「ついこの間までは攘夷だ、攘夷だ、といっておきながら、なにを今さら和議だ。よくも私のまえでそんなことが言えるものだ」
はるばるイギリスから戦闘を止めに帰ってきたのに、人の言うことも聞かずに開戦すれば、わずか3日経つか経たぬ間に和議をしろとは何事だ。こんなことでは国はとうてい維持できない。そう思った井上はその場を憤然と去って、奥の間に引っ込んでしまいました。
これを危ぶんだ高杉が井上のあとを追っていきました。すると、井上は短刀を手に握って切腹しようとしているではありませんか。
「なにをする、聞多!」
高杉が井上の手を掴みました。
「止めるな、晋作。ああいう者たちが君公を危険に陥れ、国を滅ぼしてしまうのだ。それを見たくないから、俺の臓物を掴みだして投げつけてやりたいのだ」
「まあ、そう過激なことを言うな。そうならぬように工夫するのが大事ではないか」
そう言って、高杉は井上から短刀をもぎ取ってしまいました。高杉に諌められてなんとか切腹は思いとどまりましたが、井上も素直に世子の言うことに従いません。君前でも無遠慮に意見を言い、議論を吹きかけるのです。
定弘は最初に「止戦講話」という文字を書いて井上に授けたのですが、「今さら講話と言っても真意を知るのに苦しむ」と言うので、今度は「以権道講和」(権道をもって講和する)の5字を示しました。すると、「権道とは本気で和議を結ぶのではなく、策略であるということですか。そんな信義に反したことをすれば、外国人も禽獣ではなく、信義を重んじる人間ですから容赦はしないでしょう。そうお心が朝夕に変わっては、国を維持することはできませぬ」と反論します。
井上の頑固さには高杉もあきれて、「ちょっと来い」と井上を別室に連れて行き、「いい加減議論はよして、和議をしようじゃないか」と井上を諭します。その途中で再び世子より招かれ、今度は「以信義講和」(「信義をもって講和する)という文書を示され、「わずかな間にまたお心が変わりましたか」と、またしてもいろいろ理屈をこねたあと、最後には「そのお言葉をご記憶なさって、けっして反故になさらぬように」と釘を刺し、ようやく和議の決定を受け入れたのです。
問題は和議の使節の人選で、本来なら一番家老がするべきでしたが、他の家老も含めて、とても外国人と談判するような力量を備える者はいませんでした。そこで、度胸のよい高杉晋作にその役目がまわってきたのです。彼を正使として、家老宍戸備前の養子・宍戸刑馬を名のらせ、渡辺蔵太と杉徳輔を副使とし、伊藤と井上は通訳の身分で同行しました。
連合軍との和議交渉は8月8日から行われ、高杉らは司令長官のいる英国旗艦ユーリアラス号に乗り込んでいきました。
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