木戸孝允への旅はつづく 49


風雲篇(山口)

● 内なる敵(井上襲わる!)

 長州側の講和使節・宍戸刑馬(実は高杉晋作)は萌黄色の地に大きな淡青色の紋章(桐の葉と花)を描いた大紋(礼装用の直垂)に黒い烏帽子をつけ、白絹の下着は眼の覚めるような純白で、降伏の使節にもかかわらず、「まるで魔王のように傲然と構えていた」と連合軍側の通訳アーネスト・サトウは自著で語っています。「しかし、だんだん態度がやわらぎ、すべての提案をなんの反対もなく受け入れてしまった。それには大いに伊藤の影響があったようだ」
 サトウが言うように、すべてを受け入れたわけではないことが次回の交渉で明らかになります。とにかく休戦協定はなりました。それによって、大砲の撤去と砲台の破壊、敵対行為の中止、捕虜の解放、鶏や野菜など食料品の供給などが約束されました。
 第2回の交渉では毛利登人が使節になり、宍戸刑馬こと高杉は姿を見せませんでした。頑固な攘夷派が外国人との講和をすすめる高杉らに憤慨して、暗殺を企てたのです。攘夷派の動きを感知した高杉と伊藤がいちはやく雲隠れしたことから、藩がわはやむなく別人を派遣せざるを得ませんでした。しかし、最初の使節が来ないことを不審に思った連合軍がわが、「なぜ来ないのか」と問い詰めたので、通訳として出席していた井上は藩庁に強硬な談判をして、高杉らの身の安全を保証させました。
 こうして8月14日、第3回の交渉には潜伏先から呼び戻された高杉らが再びあたることになりました。その結果、以下については最終合意に達しました。

一、 海峡を通行する外国船に対しては親切な取り扱いをすること。
二、 石炭、食料、水、その他の必需品を購入できるようにすること。
三、 悪天候で避難する際には、乗組員の上陸を許すこと。
四、 新たな砲台は築かず、古い砲台を修築せず、大砲も据えつけないこと。

 ただし、第五条の「賠償金の支払」については、「外国艦船の砲撃は朝廷や幕府の命令にしたがっただけなので、幕府と交渉してほしい」と言って、きっぱりと拒否しました。さらにイギリス側から、下関突端にある彦島の租借を要求してきましたが、これもあれこれと理屈を述べて断ってしまいました。高杉の講和談判はこうして無事終了し、文久3年5月から始まった6次にわたる長州の攘夷戦争はここに終結したのです。この時から、長州とイギリスとの友好関係が少しずつ深まっていくことになります。
 長州側は外国側との講和が成立したからといって、ほっとひと息つくことはできませんでした。幕府の長州征伐の命令はすでに発せられており、8月下旬には徳川慶勝(尾張)が征長総督に、参謀には西郷隆盛(薩摩)が任ぜられました。長州藩ではその対応をめぐって、意見が真っ二つに分かれていました。幕府に対して恭順の意を表し、謝罪することによって毛利家の安泰をはかるという保守派(「俗論派」)と、外に対しては恭順を装いながら、藩内では武備を充実させて幕府軍の攻撃に備えるという武備恭順派(「正義派」)の二派が真っ向から対立していたのです。
 9月25日、山口の政事堂で君前会議が開かれました。席上、椋梨藤太ら重臣たちがひたすら恭順謹慎を主張するのに対して、井上は尊王の素志を貫徹し藩の危急を救う道は「武備恭順」以外にないと激しく論駁し、ついに敬親の採決を「武備恭順」に導いてしまいます。
 その後、井上が下僕浅吉とともに政事堂を退出したのは午後8時ごろでした。井上の家まではほぼ1里半の道のりで、あたりは漆黒の闇。浅吉の持つ提灯だけが2人の足元を照らしていました。途中に圓龍寺という真宗の寺があり、俗論派先鋒隊の屯所になっていました。圓龍寺の門前を通り過ぎて袖解橋に向かおうとしていた井上は、ひとりの男に呼び止められました。
「聞多さんですか?」
「そうだ」
 井上が答えるまもなく、2〜3人の男が彼に飛びかかってきました。突然、押し倒され、凶器の刃が振りおろされるのを、井上は辛うじてかわします。しかし、土塀に追いつめられ、背中、腹など体中を斬りつけられて、重症を負ってしまいます。それでも夢中で逃げて芋畑に身を隠し、なんとか敵の追跡を逃れると、近くの百姓家に助けを求めました。おびただしい鮮血と泥にまみれた井上を、百姓はモッコに乗せて井上の兄・五郎三郎の家まで運びました。でも井上の意識は朦朧としており、兄が呼びかけても答えることができません。ただ苦しげに手真似で、介錯を頼むとの意を示すだけでした。兄も、これはもう助かるまいと思って、「楽にしてやるほかない」と刀の柄に手をかけました。そのとき、母親が駆け寄って井上をかばい、
「斬ってはいけません。どうしても介錯するというなら、自分もいっしょに斬りなさい」と必死の形相で懇願したのです。「とにかく医者を呼んで傷口を縫合させよ」と言い張るので、ついに兄も刀をおさめて医者を呼びに行きました。
 駆けつけたのは井上と親しい漢方医所郁太郎で、他にも井上の遭難を知って2人の医師がすでに来ていました。彼らは、傷が深くて手の施しようがないと言います。それでも所はすぐに焼酎で傷口を洗浄し、小さな畳張りを使って次々と傷口を縫合していきました。50針も縫い合わせて、手術が終わった時には夜も明けようとしていました。


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