木戸孝允への旅はつづく 50


風雲篇(山口)

● 俗論派政権

 井上が襲われた同じ日に、吉冨藤兵衛の家で周布政之助が自殺しました。自ら短刀で咽喉をかき斬っているのを、下女の報せで藤兵衛が発見したのです。これより前、岩国の吉川監物が幕府との間を斡旋するため山口を訪れていました。これがきっかけで守旧派が勢いづき、尊王派の大和国之助を直目付から解任させ、自派の毛利伊勢を加判役(家老)に据えました。彼らはたとえ藩主父子が切腹を命じられ、減封されても家名の存続が叶うなら、幕府にひたすら詫びるべきであると主張していました。藩政府は恭順派によって支配されようとしており、幕府の征長軍の来攻は目前に迫っていました。この状況をくつがえす方策もなく、周布は絶望してしまったのでしょうか。小五郎とともに進発論には最後まで反対した人でしたが、結果責任を負わされたかたちでの自刃はまことに不運であり、無念だったに違いありません。享年42。
 井上が瀕死の重症を負い、周布も亡くなったとあれば、もはや俗論党の台頭を抑えるものはなく、椋梨一派が政権に返り咲きました。毛利登人、前田孫右衛門、大和国之助は免職、謹慎処分となり、宍戸左馬介、中村九郎、佐久間佐兵衛らは野山獄に投じられてしまいます。奇兵隊以下の諸隊は解散を命じられましたが、高杉晋作はいち早く危険を察知して下関に走り、白石正一郎の助けを借りて、谷梅之助の変名で筑前(福岡)に脱出することに成功しました(後に詳述する)。
 11月3日、総督参謀西郷吉之助(隆盛)が岩国を訪れて吉川監物と会談し、藩主父子の蟄居、福原越後、国司信濃、益田右衛門介3家老の切腹、三条実美ら5卿の他藩への移転、山口城の破却が要求され、俗論派政権はこれを承諾しました。3家老の首は征長総督徳川慶勝(尾張藩主)の代理人が待つ広島へ送られ、宍戸ら4参謀は斬罪に処せられました。さらに、12月には毛利登人、山田亦介、松島剛蔵、前田孫右衛門、大和国之助、楢崎弥八郎、渡辺内蔵太の7人が斬首され、その6日後には家老の清水清太郎が切腹に処せられました。清水は戦国時代、秀吉軍に包囲され、城兵の助命を条件に船上(水攻めにより)で見事に自刃した高松城主清水宗治の子孫です。
西郷は「長人をもって長人を処置させる」という策略を成功させたのです。長州征伐のために動員された36藩は財政難に苦しんでおり、最初から戦意に欠けていました。決死の長州藩を相手に戦って長期戦となれば、どのような事態になるかわかりません。そんな危険を冒すよりも、征長軍の威力をもって長州藩内に内部分裂を起こさせて、漁夫の利を得たほうがよいと西郷は考えたのです。そのために恭順派とみられる岩国藩主の吉川監物を利用したのですが、密偵も放って長州藩内が坪井派(守旧派)と村田派(尊攘派)に分裂している事情をしっかり掴んでもいました。結局、長州藩は西郷の思惑どおりとなり、これ以降も血で血を洗う内部抗争がつづいて、多くの犠牲者を出すことになります。
ただ、西郷は俗論派政府による尊攘派の処刑には眉をひそめたようです。彼はすでに勝海舟と会談して、幕府の腐敗しきった内情について聞かされており、将来における長州藩との提携をぼんやりと意識していたのかもしれません。
 その後、椋梨らはさらに尊攘派の粛清を徹底しようと、山県半蔵、井上聞多を含む名簿を藩公に提出しましたが、敬親は「おれに考えがある。これはしばらく預かっておく」と言って処刑を止めさせたのです。毛利父子は11月25日、萩城を出て天樹院に蟄居し、恭順の意を表しました。守旧派による尊攘派の弾圧によって、幕府が危険人物としていた者のほとんどが亡くなり、あとには脱出した高杉晋作、出石に潜居中の桂小五郎、5卿の守護で長府にいた太田市之進などごく少数になってしまいました。小五郎と晋作は広島で吉川監物が幕府がわから名指しでその所在を問われており、小五郎については「行方はわかりません」と答えています。
 高杉は福岡への脱出に先立つ10月25日、百姓のような姿をして病床の井上を訪ねていました。井上の傷が回復に向かっていることに安堵すると、「九州の同志と諸隊に呼びかけて、俗論派政府を倒したいがどうか」と井上に相談しました。井上はこの計画に大いに賛同し、夜更けまで酒を酌み交わし、互いに詩を詠みました(原漢文)。

(井上聞多) 身は数創を被るも志は未だ灰(かい)せず いつの時にか蹶起して氛埃(ふんあい)を払わん 君の雄略方寸に存するを喜び 病苦忘れ来たり且つ杯を侑(すす)む

(高杉晋作) 心胆未だ灰(かい)せざるも 国は灰せんと欲す 何人か満城の埃(ちり)を払ひ尽くさん 身に漆(しつ)し炭を呑むは吾が曹事(そうじ) 防長の坏土(はいど)を護らんことを要して来たる

井上は、全身傷だらけでも志は失わない〜と詠い、高杉は、魂がまだ滅びていないのに国は滅びようとしている、(中略)身体に漆を塗り炭を呑んで外見を偽るのは私の使命だ〜と決起への決意を語っています。その後、高杉は楢崎弥八郎に会いますが彼の賛同を得られず、山県狂介の援助で下関の白石正一郎のところまで逃れます。白石の日記に曰く、
「二十九日昼、萩より高杉東行君ひそかに来訪、座敷奥の方へ潜伏、萩俗論大沸騰の由承る。今夜半久留米より渕上郁太郎登りくる。夜八ツ時分、野唯人の宿長太方へ此方同行罷り越す」

高杉が野唯人(本名は中村円太、筑前の脱藩浪士)らとともに白石邸から九州に渡ったのは11月1日のことでした。


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