木戸孝允への旅はつづく 5


青年時代(江戸)

● 小五郎、洋式兵術を学ぶ

ペリー艦隊が来航した少しまえの5月24日、吉田松陰が江戸に入ってすぐに練兵館を訪れ、小五郎と会いました。松陰は2年前、藩の許可を受けずに熊本藩士・宮部鼎蔵(ていぞう)とともに東北旅行に出かけてしまったことで、罪を問われて藩士の身分を剥奪されていました。しかし藩主は松陰を惜しみ、実父・杉百合之助の育(はぐくみ)ということにして、10か年の諸国遊学の許可を松陰に与えたのです。
そんなわけで松陰は萩を発って江戸にやってきたのですが、士籍がないので藩邸におおっぴらに行くことができません。そこで小五郎に藩邸の様子を窺うように頼んだのでした。幸い藩邸も拒否するどころか、松陰から学問を学びたいという藩士らがいて、出入も自由にできることになりました。そしてすぐにペリー艦隊の来航です。人づてにこれを聞くと、松陰はただちに浦賀に向かいました。
「浦賀へ異船来たりたる由につき、私ただ今より夜船にてまいり申し候。海陸ともに路留めにも相なるべくやの風聞にて、心はなはだ急ぎ飛ぶが如し、飛ぶが如し……」
と松陰は江戸藩邸の大検使・瀬能吉次郎あてに書いています。
一方、6月7日に大森海岸の守備に向った小五郎は、9日には呼び戻されて、藩主毛利慶親の警固隊に加えられました。斎藤道場の塾頭になっている小五郎に藩主が注目しはじめたのでしょう。

来春のペリー再来に備えて、幕府が品川台場の建設を決定したのは8月始めのことでした。江川太郎左衛門(英龍)が現場の指揮を担当することになり、斎藤弥九郎も兵学上の師として同行することになりました。これを聞いた小五郎は「是非私をいっしょに連れて行ってください」と師匠に懇請しました。たとえ奴僕になっても台場工事の現場をこの目で見たい、という小五郎の必死な請いに弥九郎は考え込みました。幕府が計画する工事現場に外様藩士が侵入したことを知られたら、やっかいな問題に発展しかねません。しかし弥九郎はどうも小五郎には甘いようで、なんとか連れて行ってやろうと思い、自分の弁当持ちに化けさせることにしました。
こうして小五郎は弥九郎をとおして江川太郎左衛門と知り合い、海岸の測量法や砲台について学ぶことになりました。太郎左衛門はこの頬かぶりした弁当持ちの正体にうすうす気づいていたようですが、熱心な若者の様子に好感を抱いたらしく懇切丁寧に指導したのです。

砲台築造に関する調査がひとまず終わると、小五郎は芝、新銀座にある江川塾に正式に入門しました。まず小銃の操作法を学んだ後、各自の希望にしたがって山野の戦法、海岸、船上の砲術など西洋銃陣を学ぶことになりました。三番町の斎藤道場から芝の江川塾に通うようになって間もない9月16日、吉田松陰から「お話したいことがあるので、今晩なんとか来てもらえないだろうか」という手紙が小五郎に届けられました。
これより前にプチャーチンの率いるロシア艦隊が長崎に来航していました。アメリカ艦隊が去ったら、今度はロシア艦隊が来た、ということで松陰の危機意識は頂点に達していたようです。外夷に抗するためには外夷のことを知らねばならない、と松陰は考えました。松陰の師である佐久間象山も同じ考えで「密航するしかない」と言い、「漂流と見せかけてロシアの艦隊に拾われて外国へ行けば罪にはならない。ジョン万次郎の例もある」と松陰を励ましたのです。

ただでさえ、思い立ったら前後の見境なく目的に向って突進していくような人でしたから、火に油を注ぐようなものです。「行く」と決めたらもう一直線で、すぐに旅支度をはじめました。ただ、これがとんでもない冒険であることは松陰にもよくわかっていました。もしかしたら幕吏に密航と気づかれて途中で捕まってしまうか、うまく外国船に乗り込めたとしても、無事日本に戻ってこられる保証はないのです。師とも弟子とも最後の別れになるかもしれない。そう思ったら、松陰はどうしても最後に小五郎に会っておきたくなりました。彼は小五郎に手紙を送って、江戸の宿泊先で彼を待ちます。小五郎にあってから、江戸を去りたい。とにかく小五郎に会いたい――どうやら松陰にとって小五郎は単なる弟子以上の存在になっていたようです。なにを頼んでも一所懸命に奔走してくれるし、礼儀正しくて、どこか大人びているのに、その眼は少年のように澄んで誠実な光を湛えている。松陰はそんな小五郎に何事かを託したかったのでしょう。
でも、ついに小五郎は姿を現しませんでした。彼は藩命によって大森・羽田の海岸調査に出向いていたのです。
「圭木(桂のこと)を待ちしも至らず、悵然たることこれを久しうし、決然袂を振って去る」と松陰は日記に記しています。その後、長崎へ向けて発ちますが、彼の計画は挫折しました。プチャーチンの艦隊は松陰が長崎に着く前にすでに出航していたのです。

<補記>  吉田松陰について

1830年に長州の下級藩士・杉百合之助の二男として生まれる。幼名は虎之助。5歳のとき、藩の兵学師範吉田家の仮養子となり、翌年、杉家に同居していた吉田大助(叔父)が亡くなり、6歳で吉田家の八代当主となる。 大次郎と改名。後には寅次郎、松陰を名乗る。父と叔父玉木文之進から厳しい教育を受け、19歳で明倫館の兵学教授となる。1849年、藩の海岸線を視察し、海岸防備の必要性を実感する。その後、九州を旅し、江戸に遊学、東北にも旅行して様々な人々と逢い見聞を広めた。1854年、ペリー再来航時に密航を企てた罪で入獄、その後萩へ護送され、野山獄に入獄する。1855年、実家の杉家預りとなり、1857年に松下村塾を主宰。1858年、幕府による通商条約調印を批判して、老中間部詮勝の暗殺を企てたので、藩政府は松陰を再び野山獄に収容する。1859年10月27日、安政の大獄で斬首される。


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