風雲篇(下関、山口)
● 高杉晋作、決起!
高杉は九州の同志たちに共に決起するように促しますが、だれも説得に応じようとはしませんでした。俗論派政権が幕府に屈服しているような状況では、他藩の志士たちが積極的に晋作の計画に乗ることはできなかったのです。しかたがないので高杉は志士たちに同情的な尼僧・野村望東尼の平尾山荘に隠れて時期を待つことにしました。
奇兵隊以下の諸隊は解散命令を伝える藩政府に見切りをつけ、三条実美ら5卿を奉じて長府に退き、藩主毛利元周(もとちか)を頼ります。このままいくと、ひたすら幕府への恭順方針をとる長州藩は、西郷がもくろむような5〜6万石に減俸され、東国あたりに国替されることにもなりかねません。新時代の扉を開く原動力となり得る唯一の藩は、今まさに維新回転の動きを止めようとしていました。
高杉は10日ほど山荘にこもっていましたが、いつまでもじっとしていられる性分ではありません。3家老自刃の報が伝わると憤りに燃えて山荘を飛びだし、11月21日には博多を経って下関に向かいました。このまま朽ち果てるよりは俗論派と戦って死んだほうがいい、と決意した彼は下関から長府にいたり、諸隊を集めて彼らのまえで主張します。でも、速やかに兵をあげて俗論派政府を討とう、と力説する高杉に、諸隊の幹部はなかなか賛同してくれません。奇兵隊総監の赤根武人は自重論を唱えました。藩政府と交渉して有利な結果を得ようとしていたからです。高杉はそれを妥協とみて赤根と対立しました。他の者も時期尚早として同調せず、窮した彼は「諸君が同意しないなら、自分ひとりでも萩に行く」と断固とした決意を表明します。ついに遊撃隊総督の石川小五郎がこれに応じ、力士隊の伊藤俊輔も高杉と行動を共にする決意を伝えました。
これに勇気をえた高杉は功山寺に滞在していた三条らに別れを告げ、12月16日未明、総勢80余名を率いて下関に挙兵しました。その日は朝から雪が降りつづき、あたり一面が白銀に覆われる中、たった一門の大砲を引いて同地伊崎の新地会所(奉行所)を襲ったのです。彼らは藩役人を追放してこれを占拠すると、すぐに三田尻の海軍局に兵をすすめて藩船3隻(発亥丸、庚申丸、丙辰丸)を奪い取りました。高杉はただちに檄をとばして兵を募りますが、なかなか思うように集まりません。でも諸隊から参加する者もでてきて、数日のうちには120名ほどが集まってきました。
また、軍資金が必要なので、山口の豪農吉冨藤兵衛に密書を送って、4〜5百両ほど用意できないか、と頼みました。それと共に、井上を脱走させて下関まで連れて来るように懇請しています。井上は11月下旬に藩命で山口に帰ると、湯田の自邸に幽閉の身となって日夜監視されていました。萩へ護送して斬に処すべしとの意見もあったのですが、未だ病身なのでしばらく処分が猶予されていました。高杉は、このままだと井上は俗論派に殺されかねないことを心配して、なんとか救い出そうと苦慮していたのです。
吉冨はまず200両を高杉に届けさせると、井上の救出作戦に乗り出しました。元治2年(1865)1月10日、吉冨は人数を二手に分け、表玄関と裏口から杉垣をけ破って井上家に侵入し、井上を戸外に連れ出しました。彼らは長寿寺まで走って山口、小郡の有志たちと合流すると、井上を総督にして「鴻城軍」(こうじょうぐん)と称する一隊を組織し、本営を常栄寺に置きました。
一方、自重論が支持されなくなった赤根が脱走したあと、山県が総大将のようになっていた諸隊は同月6日に美祢郡の絵堂、大田で萩の鎮静軍と激戦を展開してこれを打ち破っています。19日には山口に入り、萩総攻撃の陣営がここに整いました。
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