木戸孝允への旅はつづく 52


風雲篇(山口、萩)

● 正義派諸隊、政権を奪取

 反乱軍の陣容は、井上率いる鴻城軍が1200人、高杉率いる遊撃軍は300人、山県狂介率いる諸隊は200人(いずれも概算)。高杉軍は下関から大田に移動し、山県軍と合流してから山口に入りました。各隊の配置は本営の山口には鴻城軍、山口郊外のおさえとして、佐々並に南園隊、御楯隊、徳地口に膺懲隊、篠目口に奇兵隊、勝坂に八幡隊、大峠に遊撃隊などが駐屯し、萩の藩政府に大いに脅威をあたえることになりました。しかも反乱軍には庄屋や農民層が味方していたので、彼らがいっしょに暴動を起こすことを藩政府は非常に恐れていました。
 このすこし前に、萩では中立派の家臣団が行動を起こしはじめていました。彼らは自ら鎮静会議員と称し、反乱軍有利の情勢のなか、必然的に反乱諸隊に同情的になっていました。彼らはこの内乱を終息させるように家老毛利将監に話すと、将監が同意したので、戦闘の中止を藩主に訴えるため杉徳輔、杉民治(松陰の兄)らが萩城に赴きました。その結果、敬親が戦闘の終結に動き、清末藩主毛利元純と諸隊の総督の交渉により28日までの休戦が成立しました。
でも28日になると、反乱軍がわは休戦期間の延長には応ぜず、癸亥丸(きがいまる)など軍艦を萩の海上にまわして、さかんに空砲を放って藩政府を威嚇しました。このときまでに鎮静会議員は200余名にふくれ上がり、「解散せよ」という藩政府の命令にもしたがわず、東光寺に籠っていました。彼らは俗論派の政府員椋梨藤太、岡本吉之進らの罷免を敬親に要求し、もはや反乱軍の別働隊のようになっていました。この情勢では敬親もその要求に応ぜざるを得ず、椋梨らを罷免し、山田宇右衛門、兼重譲蔵、中村誠一らを登用しました。また、政治犯はみな釈放され、2月初旬には山口に正義派政権が誕生し、3月には「武備恭順」の藩是が確定、敬親も萩から山口に移りました。
一方、罷免された椋梨ら12名は萩を脱出して津和野藩領まで逃げ、吉川監物を頼って岩国に向かおうとしましたが、途中で捕らえられて萩に護送されました。動き出した正義派政権の主な成員は高杉晋作、井上聞多、伊藤俊輔、村田蔵六(大村益次郎)、波多野金吾(広沢真臣)、山県狂介(有朋)、佐世八十郎(前原一誠)、石川小五郎(河瀬真孝)などで、幕府に対する徹底抗戦を覚悟した大割拠態勢が敷かれることになりました。

さて、この間、小五郎や幾松はどうしていたのでしょうか。


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