風雲篇(京都、下関)
● 幾松の逃避行
時間をすこし前にもどして、ここで幾松の行動について触れてみようと思います。禁門の変後に小五郎が広戸甚助の助けを借りて但馬出石に逃れた後も、幾松は京都にとどまっていました。幕府がわは小五郎がまだ京都に潜伏していることを疑っていたので、当然、幾松に監視の目を光らせていました。彼女は小五郎が京都から無事逃れることができたのか、潜伏先はどこなのか、まだ情報を得ていませんでした。でも、自分がうかつに動けば、幕府に怪しまれることにもなるので、しばらくじっとしているよりほかありませんでした。小五郎の身を案じながら悶々と過ごしていたある日、突然数人の幕府の探索者(会津人か、新選組か?)が三本木の吉田屋を訪れ、幾松のいる部屋に侵入してきました。彼らは乱暴な声で彼女に桂小五郎の所在を質します。
「存じませぬ」
ぴんと背筋を伸ばし、顔色も変えずに幾松はきっぱりと答えました。評判に違わぬ彼女の美しい肢体は男たちの眼をひきつけずにはいません。ひとりの男が欲望にかられて幾松に近づき、その白い肌に触れようとすると、幾松はとっさに手にしていた三味線を膝にかけてへし折り、男に投げつけました。すばやい動作で立ち上がると、男たちの間をすり抜け、あっという間に走り去っってしまいました。
幾松はそのまま夢中で通りを駆けて、対馬藩邸に逃げ込みました。幾松が来たことを知らされた多田荘蔵は驚いて彼女に事情を訊ねました。幕吏の手から逃れてきたことを説明すると、今度は彼女のほうが小五郎の潜伏先について多田に訊ねます。多田は小五郎が出石に逃れたことを知っていましたが、
「申し訳ないが、いまは言えません。もしあなたが桂どののあとを追っていけば、新撰組がかぎつけ、あなたのあとをつけていくかもしれませんからね」
多田自身、勤王派で桂と親しかったので、これ以上京都にいることには危険を感じていました。彼はしばらく思案していましたが、意を決して、
「幾松さん。わしらといっしょに京都を出て、長州へ逃れましょう。馬関(下関)に白石正一郎という親勤王派の豪商がおりますから、ひとまずそこを訪ねてしばらく様子を見るほかありません」
おそらくそんな会話がなされたに違いありません。まもなく幾松は多田や彼の愛妾など6〜7人と共に対州人を装って密かに京都を発ち、馬関へと向かったのです。幾松の逃避行の末にはなにが待っているのか、前途はまったく予測がつきません。でも、そのまま留まっていれば、幕吏に捕らえられるかもしれなかったので、彼女は小五郎と再会できることを信じて、京都から逃れる以外に途はありませんでした。
幾松たちが下関についたのは9月6日のことでした。ちょうど、連合軍がわとの休戦交渉が終結したあとで、9月下旬には外人応接係の伊藤俊輔が横浜から下関にもどってきました。そのころ、幾松たちは越荷方(倉庫業と金融業を営む長州藩の役所)の筋向いの紅屋喜助の家に逗留していました。多田は対馬に帰るつもりだったのですが、同藩では大変なことが起きていました。藩主の叔父勝井五八郎がクーデターを起こして、家老大浦教之助ら200名を超える親長州派の藩士たちを殺害してしまったのです。保守派が台頭し、婦女暴行なども起こって、治安が著しく悪化していたため、とても幾松たちを連れて帰れるような状況ではありませんでした。
そこで多田は伊藤と会って、幾松を彼に託すことにしました。でも、この頃に井上が俗論派に襲われ、周布が自殺し、萩では俗論派の椋梨らが政権について、正義派が次々と粛清される最悪の事態が生じていました。幾松は下関で伊藤や村田蔵六に保護されてはいましたが、今後どのような状況になるのか、胸に不安を抱きながら過ごすことになったのです。
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