木戸孝允への旅はつづく 54


風雲篇(下関)

● 小五郎の消息

 幸い高杉らが挙兵して守旧派政権を倒し、2月初旬には正義派政権が誕生しました。広戸甚助が馬関(下関)にやってきたのはちょうどその頃でした。逢ったのは村田蔵六と伊藤で、そのとき初めて小五郎が但馬の出石に潜伏していることがわかりました。幾松からの話で但馬にいるらしいことは推測しており、高杉などが「小五郎を呼び戻してこい」としきりに言っていたのですが、誰も正確な居場所を知らなかったのです。しかし、小五郎の消息は村田と伊藤、それに村田から今後のことを相談された野村和作(靖)の間で極秘にされました。幕府の間諜に漏れないともかぎらず、高杉にはあまり派手に動かれても困るという気持ちもあって、村田は用心したのかもしれません。
 小五郎を早急に帰国させようということで、まず村田が手紙を書き、その後すぐに野村も手紙で小五郎に内乱の状況を知らせると共に、即刻の帰国を促しました。彼らは小五郎がとかく藩外に出たがり、藩外での活動を重視していることを知っていたので、もしかしたら帰国しないでそのまま京都などの情勢探索に動くことを懸念していたようです。現状では、本人にとってそれは非常に危険なことでした。野村の心配はその手紙にも表れています。

 すでに回復十に九まで来ていますが、(略)何にしても国は人物を失っており、この一義は遺憾ともなんともお家の不運か、悲しみ極まって涙も尽きてしまったこともあります。ついては過日より東行(高杉)その他とも話し、ぜひとも尊台のご帰国をあい願うため、一人差し越す手段に一決いたしましたが、煩雑中のためまだその事にも及ばなかったのですが、今度の一夢、幸中の幸で、さっそく一書を呈上するしだいです。何分にも国家のためきっとご堪忍くださり、ぜひとも一日も早くお帰りになるよう願い奉ります。

 とにかく「外で(国のために)尽くすなどのご論はやめてほしい」、事情の詳細は「ぜひぜひお帰りの上、縷々お咄しつかまつるべく候」としつこいほどに念を入れています。このあと野村は「反長州派の専横をなんとかしてほしい」と対馬藩の多田と家老の平田大江に頼み込まれ、親長州派のてこ入れをするために8人の同志とともに対馬に発つことになります。高杉と伊藤は諸隊を指揮するのに忙しく、村田も外人応接掛として馬関をはなれることができません。結局、幾松が甚助とともに出石に小五郎を迎えに行くことになったのですが、もとより彼女が望んでいたことでもありました。一方、高杉はのちになって、小五郎の所在を手紙で村田にたずねています。

「桂小の居所は、丹波にてござ候や、但馬にてござ候や、また但馬なれば何村何兵衛の所にまかりあり候や」

 どこにいるのか、ご一筆下されたく頼み上げ候、と高杉も小五郎の一日もはやい帰国を望んでいました。というのも彼は、混乱する藩をまとめるのに嫌気が差していたのです。奇兵隊を含む諸隊と、士族の正規軍・干城隊との間に軋轢も生じていて、「およそ人というものは艱難は共にできるが、富貴は共にできぬものだ」と言い出し、洋行を決意します。その周旋を井上に頼んで、藩から1000両を受け取ると長崎に行き、伊藤の仲介でイギリス商人グラバーと領事館の人に逢います。高杉はイギリス行きの手配を頼んだのですが、「それよりも馬関を開港するほうが重要だ」と言われ洋行を止められます。幕府が長州再征に動き出していたので、貿易路を確保してはやく武器を輸入する必要があったのです。高杉は思いなおして、馬関に帰ることになります。
 その間、幾松は馬関を発ち、甚助を案内人に出石にむかう途上にありました。


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