木戸孝允への旅はつづく 56


風雲篇(土佐、長州、江戸)

● 土佐浪士の動向(中岡と坂本)

 さて、ここで小五郎と長州藩に重要な関係をもつ土佐郷士、中岡慎太郎と坂本龍馬について語っておこうと思います。ふたりは文久元年(1861)、武市半平太(瑞山)がリーダーとなって結成した土佐勤王党に参加しますが、その後、時期を違えて両者とも脱藩しています。山内容堂公が時の政情に合わせて、佐幕的立場をとったり、尊皇攘夷に理解を示したりして、その態度が一定していなかったために、土佐勤王党にも悲劇が起こりました。
 文久3年に起きた八・一八政変(本テーマ34、35を参照)後には佐幕派が勢いを得て勤王派を弾圧、武市は投獄されてしまいます。翌年、これに反対して勤王党23名が蜂起し、武市らの釈放を要求しますが、全員が捕縛され斬罪に処せられました(野根山屯集強訴事件)。慶応元年(1865)閏5月、ちょうど幕府の長州再征が決まって、小五郎が出石から帰藩して間もなく、武市に切腹の命が下ります。勤王党は容堂の寵臣で佐幕寄りの吉田東洋を暗殺していたので、岡田以蔵などが拷問に耐え切れずに自白してしまったことが、武市の死に大きく影響したようです。武市は「土佐の吉田松陰」とも言われる人物で、同志の人望あつく、牢番も彼に心酔して、牢外や別牢の同志との連絡に協力したといいます。土佐一藩をあげて勤王党にする目標を持っていた武市は、容堂に期待をかけ過ぎ、失望の果てに命を落とす結果となってしまいました。

 脱藩した中岡と坂本は佐幕派の弾圧の手から免れることができましたが、藩外でふたりは異なる道を辿ることになりました。中岡慎太郎は文久3年10月に脱藩して長州の三田尻に走り、三条実美らに土佐藩の状況を報告しました。長州藩が同地に設けた招賢閣(脱藩浪士のための施設)に入って、会議員に推され、真木和泉(久留米藩)、宮部鼎蔵(肥後藩)、中村円太(筑前藩)、福羽文三郎(津和野藩)らと尊攘浪士たちを指導する立場にたちます。
 招賢閣の生活は厳しく統制され、朝は6時に起床し、京都の朝廷に向かって礼拝します。食後は文武の講習があり、昼食後には武術の稽古、夜間は兵書の講義を受けるので、ほとんど自由時間はありません。放縦は許されず、非常時下の体制が敷かれていたのです。
 これ以後、中岡は京都に出て薩摩の情勢をさぐり、禁門の変、外国艦隊との下関戦争、征長軍の長州包囲、高杉晋作の挙兵という騒然とした時期に、常に長州藩の尊攘派と行動をともにしてきました。元治元年12月初めには豊前小倉にわたって、三条ら五卿の移転問題などで薩摩の西郷と会談し、五卿の安全の保証と征長軍の解兵を確認しました。中岡はこの頃から薩摩と長州を和解させようという意識を強め、この会談で西郷にも語ったようです。犬猿の仲である薩長両藩をどう説得し、和解させるか。それを成さなければ、幕府を倒し新しい日本の体制を築くことはできない――。一介の土佐浪士・中岡慎太郎はその大いなる目標に向けて動き出します。

 一方、坂本龍馬は中岡とはまったく別の道を選びました。彼は脱藩前の文久2年1月に武市の使いで萩を訪れ、尊攘激派の久坂玄瑞と逢っています。坂本は「藩に頼らず、草莽志士を糾合して大志を遂げる」と言う久坂の話にかなり刺激をうけたようです。彼が勤王党の同志、沢村惣之丞とともに脱藩したのは文久2年3月。ちょうどその頃、薩摩の島津久光上洛の情報が諸国に流れ、この機会に各地の志士たちが京都に集まり義挙をおこそうという計画が実行に移されようとしていました。
 しかし坂本は京都とは逆の方向の下関へ向かいます。そこで豪商白石正一郎をたずね、薩摩、長州の情報を得てから九州にわたります。彼が大阪に姿を現したのは6月で、そこで先に京都に入った沢村と再会します。沢村は川鮨(かわばた)家の公卿侍となって京都で情勢をさぐっていたのです。
 坂本は『天誅』という名による暗殺に活路を見出した武市とは一線を画し、攘夷志士たちともまじわらず、江戸に出て、幕臣勝海舟の弟子になる道を選びます。幕臣としては開明的な人物である勝の思想の彼方に、坂本は封建体制下の窮屈な身分制度から自分を解放してくれる自由な海と世界を見ていたのかもしれません。そこにこそ自分の活躍する舞台があると見定めたのでしょう。すでに万延元年(1860)に咸臨丸で渡米した経験のある勝の世界を見る眼は、龍馬には斬新であり、多大な刺激を受けたに違いありません。
 やがて坂本はかつての同志たちを次々に勝の門にさそって、航海術の修業に励むことになります。文久3年には神戸海軍操練所の建設に協力し、越前に使いして松平春嶽から資金を提供させることに成功します。その後、西郷隆盛とも知り合い、勝が江戸に召還され軍艦奉行を解任された後は薩摩に身を寄せ、西郷や大久保との会談から、薩長の和解の話が持ち上がっていることを知ったようです。あるいは両藩の連合の可能性についても、聞いたかもしれません。
 それまで尊皇攘夷派とはほとんど行動をともにしてこなかった坂本は、長州の情勢探索のため、慶応元年(1865)5月に鹿児島を発ち、途中で熊本の思想家横井小楠の寓居に立ち寄ってから大宰府に向かいます。同地で三条ら五卿と面会したあと、閏5月1日、下関に到着します。そのとき、桂小五郎はすでに長州にもどっており、中岡や同じく土佐脱藩浪士で長州に依っていた土方楠左衛門が薩長和解から連合へと発展させる下工作をまさに進めている最中でした。龍馬が再び活発な志士となって、幕末の歴史に名を刻む大舞台は目前に準備されつつありました。


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