木戸孝允への旅はつづく 57


風雲篇(下関、山口)

● 小五郎の帰藩

 大阪を無事脱出した小五郎ら一行は途中、神戸に寄って楠正成の墓に参り、讃岐に上陸して金比羅社に詣で、4月20日、再び乗船して帰路につき、馬関(下関)に到着したのが4月26日でした。一行は夜になるのを待って、ひそかに対馬藩御用の桶屋久兵衛宅に投宿しました。禁門の変後、苦難の潜伏時代を凌いだ小五郎は、9箇月後にようやく帰藩に至りましたが、幕府の長州再征の話が進んでいるときに、藩の情勢はいまだに混沌としていました。
 というのも、高杉、伊藤、井上は馬関の開港論者として、清末、長府両支藩の藩士らの怒りを買い、つけ狙われていたのです。下関は大部分が長府藩領(一部は清末藩領)であり、経済的利益も大きかったので、本藩領に取り上げられることをおそれていました。それで、高杉らを「殺してしまえ」ということになったのですが、三人の開港論は支藩士ばかりでなく、本藩の攘夷論者をも怒らせてしまったのです。
 この騒動を鎮めるため、藩政府は「馬関は開港しない」と宣言し、高杉、伊藤、井上の馬関応接掛を免じて山口帰還を命じました。身の危険を感じた三人は山口にも帰らず、高杉は親しいおうのを連れて大阪へ奔り、井上は人足姿に変装して豊後別府に遁れ、伊藤は対馬に逃れる途中で長府の刺客に狙われたので、茶店の娘お梅に助けられながら馬関の町内を転々としていました。お梅はのちに伊藤の正妻になる女性です。

 伊藤が紅屋の土蔵に隠れ潜んでいたとき、小五郎が出石の潜伏先から馬関に帰ってきたという吉報が入ってきました。翌朝、伊藤はさっそく小五郎に逢いにいきました。目前に小五郎を見ると、伊藤は両眼に涙を溢れさせながら、自らの窮状を訴えました。伊藤をつけ狙っていた刺客団の首領は泉十郎という報国隊のリーダーで、旧名を野々村勘九郎といい、江戸にいたころ斎藤弥九郎道場に通っていました。つまり塾頭だった小五郎とは旧知であり、6歳若い弟弟子だったのです。
「もってのほかだ。野々村を呼べ」
 小五郎は、幕府軍の再征が目前に迫っているのに、同胞の間であい争うとは何ごとか、と泉を叱りつけました。泉はすっかり恐縮して、伊藤のところに詫びにいったので、伊藤もほっと安堵の息をもらしました。
「小五郎の帰国は長州藩にとって、大旱に雲霓(うんげい)を望むがごとき有様だった」
 と伊藤はのちに語っています。つまり「大ひでりのときに、雨の前兆である雲と虹を待ち焦がれるような」という意味で、いかに小五郎の帰国が切望されていたかを知ることができます。長州藩にとっては、小五郎が生きて帰ってきたことこそが、なにものにも勝る大手柄だったのでしょう。「防長回天史」にも、

「当時、山口政府は有力の一指導者を得んと欲するに切なり。桂の帰るや大旱の雲霓も啻(ただ)ならず、是れよりして防長二州はついにその生気を倍し(五倍)せり」

 とあり、また「近世日本国民史」(徳富猪一郎著)は次のように記しています。

「桂の出現によりて、防長二国はほとんど百万の援兵を得たる心地をした。従来とても正義派にも、俗論派にも、人物に事は欠かなかった。しかも大局を洞察したる経綸の士に至りては、特に桂小五郎その人に待つものがあった。爾来、長藩が維新回天の洪業を翊賛するもの、一として彼が指導に頼らざるものは無かった」

待望のリーダー、桂小五郎を迎えて、長州藩の「大割拠策」は現実的な戦術を伴って、大きく前進することになったのです。


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