木戸孝允への旅はつづく 58


風雲篇(下関、山口)

● 粛然深夜の如し

 小五郎は4月26日に馬関に到着して以来、しばらくそこから動きませんでした。その間、伊藤や村田蔵六と会談したほか、4月30日には中岡慎太郎が小五郎を訪ねてきました。中岡が小五郎に初めて薩長連合の話をしたのはこのときで、相手から好感触を得た中岡は翌日には馬関を発って京都に向かいます。京都に着くと、彼は薩摩藩邸に入って長州がわの情報を伝え、馬関での西郷・桂会談を実現させるべく西郷のいる薩摩へと出発します。京都で中岡と再会した土方は途中で中岡とわかれて長州に赴き、小五郎と逢うことになり、薩長連合は小五郎の帰藩を境に、現実味を帯びて前進しはじめるのです。
 馬関に滞留中の小五郎は、第二次征長戦に備えるためには、本藩と支藩の結束が不可欠であると考え、自分の意見を伝えるため、村田を使者として山口の政庁に送り込みます。村田と逢って、小五郎の馬関帰着を知った国政手許役の山田宇右衛門は、藩を代表して小五郎に手紙(5月4日付)を書きます。内容を要約すると、

 馬関にご帰着なされた由、大変喜んでおります。禁門の変以来、ご苦労のほどはお察し申し上げます。村田氏からご意見を聞きましたが、我々の考えもまったく同じです。ご帰国を一同待ち望んでおりましたので、なにとぞ早々に山口までお帰りくださいますよう。なにもご心配なく、委細は村田氏よりお聞き取りください。

 さらにあとがきでも、「幾重も早々ご帰山をお祈り申しております」と念を押しています。7日には藩主敬親が時山直八を使者として派遣し、小五郎に出頭を命じました。5月13日、小五郎は山口に帰還し、1年半ぶりに敬親と対面して藩政に関する建言書を差し出しました。

 防長二州、粛然深夜の如き形情でなくては、所詮ご民政ご軍事とも挙り申さずはもとより、人心迷惑、敵に対せば必ず百敗、万々ご国家維持と申すことは覚束ないと存じます。人心迷惑は賞罰の因循にあり、軍政が立たないのはまだ一定のお手当がないからであります。……

 つまり、外に対しては静かなること林の如く、鳴りを鎮め、内においては挙国一致、上下協力し、民政軍政の整備を急ぎ、不徹底のことがあれば迅速にご指図なされなくては、今日の急に間に合わないことは明らかであるとし、おもいきった軍資金の支出が重要であることを説いています。戦いに敗れれば、敵方にすべて持っていかれるのだから、惜しむべきではないということなのです。
「そうせい」と敬親は答えました。

 小五郎の建策はすべて採用され、国政方用談役(参謀)に任じられました。彼は政事堂の用人(顧問)も兼務したので、軍事、民事、外交いっさいを指導することになりました。嘉永末期に志士活動を開始して以来、桂小五郎の指導力がフルに発揮される舞台が生れたのは、まさに長州藩存亡の危機に直面したこの時期でした。
 彼はただちに鉄砲足軽500人に苗字を、中間1000余人にも書上苗字(藩に提出する書類に書き込む苗字)を許して待遇を改善し、強力な銃隊を組織する準備を開始しました。その指導には村田蔵六を抜擢し、村田は百石どりの大組士となり、軍政担当の用所役に任じられます。以後、村田は小五郎を補佐してその軍才を存分に発揮することになります。

 また、小五郎は岩国の吉川監物と本藩との意思疎通をはかるため、伊藤を岩国に派遣して、監物を山口に呼び寄せようとしました。すでに長府藩には長府藩士熊野清右衛門を介して小五郎の意見が了解されており、残る清末、徳山、岩国の各支藩にも働きかけて、防長二州の結束を強固にすることが急務であると小五郎は思っていたのです。
 藩主からも竹中織部を岩国に遣っていましたが、監物は慎重でした。まず一人の使者を芸州(広島)に派遣してその状況を偵察させ、その後、二人の使者を山口に派遣しました。関ケ原の戦以来、徳川と毛利本家を仲介しながら、その努力が報われないという複雑な役まわりを演じてきた吉川家としては、やはり上方の情勢を見極めておきたかったのでしょう。
 だが幕府はすでに長州再征を宣言し、将軍が江戸を進発したという情報が伝わると、監物はもはや傍観座視している場合ではないと悟ります。すべては本藩のために働いてきたことなのだから、と山口に赴く決心をし、ここに挙国一致の態勢が整うことになりました。

 小五郎はさらに、逃亡中の高杉と井上を呼び戻すために、伊藤に指図して手紙を書かせ使いの者を出させました。高杉は讃岐で侠客の親分日柳燕石(くさなぎえんせき)の家にかくまわれていましたが、捕吏に見つかりそうになったので逃げ出し、多度津より備後の鞆にわたります。そこで滞在中に伊藤の手紙を受け取り、小五郎の帰藩を知って、馬関に戻ることになりました。
 備後の別府で博徒の仲間に混じっていた井上のところにも伊藤の手紙が届き、小五郎帰藩以降の藩内情勢の好転を知ると、彼も帰国を決意します。こうして幕府軍を迎え撃つ長州藩の指導層も充実してきて、桂小五郎を中心に、幕府、外国勢などとの数度にわたる戦闘をくぐり抜けてきた村田、高杉以下の人材が結束して、長州軍の近代化をめざした再編が着々と進められることになったのです。


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