木戸孝允への旅はつづく 59


風雲篇(下関、大宰府)

● 薩長連合への動き

 慶応元年(1865)5月23日、坂本龍馬が大宰府に到着しました。彼は4月下旬に薩摩船胡蝶丸に乗って小松帯刀、西郷とともに鹿児島に入り、5月17日まで滞在していました。そこで坂本は大久保一蔵(利通)とも会って、幕府の長州再征に反対する薩摩の藩論を確認したのです。大宰府では三条実美ら五卿(七卿のひとりは病死、ひとりは生野の変後に行方不明)に面会し、薩摩の事情を語るとともに、薩長和解のことが話題にされました。
 ここで坂本は、長州藩士小田村素太郎が滞在していることを知り、三条の衛士である黒岩直方(変名:安芸守衛)を介して小田村と会談しました。小田村は亡き吉田松陰の妹婿です。それより以前に、小田村は薩摩の大山格之助と大宰府の手前で遭遇していました。彼は大山から薩摩が長州再征に反対することを聴き、すでに大山と薩長提携について話し合っていたのです。坂本来訪の一報は小田村から小五郎に知らされました。
 坂本は小五郎と面会するため、黒岩とともに閏5月1日に馬関に着くと、すぐに入江和作(奈良屋という店の主で、入江九一の弟ではない)に来訪の意図を告げました。入江が長府藩士時田少輔に坂本の来訪を報じ、時田から坂本の面会の希望が小五郎に伝えられます。江戸留学中に斎藤道場の塾頭を務めていた小五郎と千葉道場の塾頭だった坂本とは旧知の間柄です。小五郎は時田に面会を快諾し、馬関に赴く旨の返書を送りました。
 小五郎は山口藩庁に事情を告げ、出張の許可を求めました。藩主の許可は下りましたが、薩長連合に関する藩主と藩要路の意見はきわめて慎重でした。これまで敵対していた経緯もあり、こちらから平身低頭して薩摩に和を請うようなことはできないという感情があったのでしょう。下駄の裏に「薩賊会奸」と書いて踏んでいた藩士たちもいたほどですから、長州藩全体の雰囲気は推して知るべしです。このときから、「薩長連合」実現にいたるまでの小五郎の苦闘がはじまります。

 そのころ長州藩では村田蔵六の指揮の下、既述したように軍の近代化が着々とすすめられていました。軽卒と民兵を正規軍に編入し、小隊、中隊を一大隊にまとめて、6月には装条銃隊を主力とする5個大隊が編成され、足軽の名称は廃止されて馬廻り八組も解体されました。もはや刀槍の時代から、戦闘では銃と火砲が威力を発揮して勝敗を決する時代になっていました。
 しかし、ここに問題が生じます。銃隊にもたせる銃の購入が非常に困難だったのです。長州藩は西洋軍制の導入にともなって、旧式のゲベール銃からより命中精度の高いミニエー銃への転換を図ろうとしていました。外国からの武器の輸入は禁止されているうえに、幕府と敵対している長州藩ですから公然と武器の購入はできません。
 たまたまイギリスの商人グラバーが千挺ほどもっているという情報がはいって、小五郎は藩庁より許可を得て、この千挺を購入しようと村田から長崎に使者を送らせました。でも、グラバーの態度がどうもはっきりせず、なかなか交渉がうまくいきません。薩長和解の行方も定かでなく、小五郎は焦っていました。

 鹿児島にむかう中岡とわかれた土方は、閏5月5日に馬関に着き、白石正一郎の邸に入りました。そこで長府の同志と会って、坂本が馬関に来ていることを知らされます。土方は坂本と会って、中岡が西郷と桂の会談を実現させるために薩摩に行っている事情を語りました。薩摩藩は将軍家茂の江戸進発の情報を知り、鹿児島から西郷を京都に呼び寄せることにしていたのです。中岡はその途上で馬関に西郷を立ち寄らせ、小五郎と対面させるつもりでした。
 薩長の和解、提携をめざした中岡、土方らの運動をはじめて知った坂本は、大いに共感し、馬関に到着した小五郎を土方とともに説得することになりました。西郷は10日前後に来るので、それまで馬関にとどまって待ってくれないかという話に、小五郎も「それでは待ちましょう」と答え、その事情を手紙で藩庁に知らせました。

大島(西郷の変名)来る10日前後、蒸気船にて来関いたし、弟(私)に面会いたしたいとのことで、(略)来関のうえは大島へも疑うべきのヶ条をあげ、きっと督責つかまつり見たく」

 西郷と会ったら、その責任を追及したいということを強調しており、藩庁からの返書も、「かの藩の疑うべき事件きっとご督責なされて、いよいよ信ずべき趣であれば〜」と薩摩藩の過去における反長州の行動についての釈明を期待しています。小五郎も長州藩内の「薩摩憎し」の雰囲気をそうとうに意識していたのでしょう。馬関で西郷を待ちながら、まさに薄氷を踏む思いで薩長間の和解交渉に臨もうとしていたことがわかります。
 5月21日、10日以上待たされた小五郎の前に姿を現したのは、中岡慎太郎、ひとりだけでした。胡蝶丸が佐賀に寄航中、大久保から「至急上京するように」との報がはいり、西郷は馬関への寄港を中止して、大坂に直行したという話が西郷の伝記にみられますが、ほかに傍証すべき資料がありません。
 大久保は上京の途上にある将軍に長州再征の勅許を簡単にとらせないように、京都の朝廷で画策している最中でしたが、西郷が馬関にちょっと寄るぐらいの時間はあったでしょう。やはり彼は長州への釈明の必要を感じながら、気後れがして、今回はそれを回避したものと思われます。中岡も面目を失いましたが、それにも増して、小五郎の大きなため息が聞こえてくるようです。


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