木戸孝允への旅はつづく 60


風雲篇(下関、山口)

● 小五郎の政治手腕

 西郷が馬関に来なかったことについて、のちに土方は次のように語っています。
 
 桂は怫然として色をなしていうことには、
「それみたまえ。僕は最初からこんな事であろうと思っていたが、果して薩摩のために、一杯食わされたのである。もうよろしい。僕はこれから帰る」
 と袂を払って去ろうとするので、坂本と中岡は「まあまあ」と止めて、
「君の顔が立つようにするから、この後のことはまず我々両人に任せてもらいたい」と百方陳謝すると、桂も、
「それならばこの後、薩摩のほうから、まず使者をわが藩によこして、和解のことを申し込まれたい。そうしない時は、わが諸隊は必ず反対するでござろう」 との話であった。

 そのほかに小五郎は、「現状において、長州は四方みな敵である。薩摩が本当に長州と提携する意志があるなら、薩摩の名義で小銃を購入できるようにしてほしい」 と主張すると、坂本はその仲介を快諾したということです。坂本と中岡は小五郎の提案を西郷に伝えるために、京都にむけて出発しました。

 そのころ、オランダの軍艦が馬関沖に投錨していました。オランダは長州藩が密貿易をやっていることを幕府に通報し、これが長州再征の理由のひとつになっていました。小五郎はオランダ艦を訪れ、総領事フォン・ポルスブルックと面会して、その事情について詰問しました。
「オランダはなぜ幕府への媚言を口にするのですか」
「そのようなことを決して申してはおりません」
 オランダ総領事の応接は慇懃をきわめました。つい先ごろ連合艦隊に負けたばかりの長州藩の代表が、抗議にくるとは思ってもいなかったのでしょう。昨年の停戦後は長州に対して仇怨はなく、真実真正の国と心得ております、とさらに述べ、「幕府が長州と戦争すればオランダが幕府に援兵を出すなどという風説がありますが、まったくの虚説ですから、どうぞ信用してください」
 と言い足して、幕長間の紛争にはいっさい関与しないことを明言したのです。オランダも自国だけが長州の恨みを買うことは避けたかったのでしょう。小五郎はさらに、幕府の長州再征は貴国が関与しているという風聞があり、弊藩ではすべて貴国の虚言によって起こったと心得ている、と言いつのると、総領事は意外な面持ちで、「それはわが国のせいではない。小倉藩が馬関港に外国船の停泊しているのをみて、幕府に申し立てたのです。それほどお疑いなら小倉藩が幕府に差し出した書面を入手してご覧に入れましょう」とまで言いきり、全責任を小倉藩に押しつけてしまいました。

 小五郎はこのようにしてオランダ総領事から言質をとり、いずれ幕府が派遣するであろう問責使の応接に備えました。幕府は長州が壬戌丸を上海で売却したこと、外国に使節を送っているなど、虚実とり混ぜた理由を整えて九州諸藩に長州再征を納得させ、命令に従わせるつもりだったのです。
 小五郎にはほかに気がかりな問題がありました。俗論党の幹部が今に至るまで処分されていなかったことです。岩国の吉川監物が助命を主張していたこと、藩の上層部に彼らへの同情者が多かったことから、処分が延引されていました。今、目前に敵兵が迫ろうとしている時に、いつ「禁門の変」後の二の舞にならぬとも限らず、このままでは挙国一致の態勢も固めがたい状況でした。しかも薩摩との提携については反対者が多く、小五郎は非難され、苦境に立たされていました。このままではどうにもならない。

 山口にもどってくると、小五郎は意を決して辞表を提出しました。現状を打開するためには、いったん長州藩を去り、身軽になって働くしかないと彼は考えたのです。
 驚いたのは藩政府です。根来上総、毛利筑前などの老臣から前原、柏村などの政府員まで彼の説得に努め、杉孫七郎、林良輔は小五郎の辞意に責任を感じて、自らも職を辞する意思を告げるほどでした。体調不良を理由に帰萩する旨を記した小五郎の書を読んで、藩政府が大いに慌てふためいたのも、小五郎に替わる藩政指導の適任者がいなかったからでしょう。
 すぐに藩主父子が小五郎を呼び、辞表の撤回を求めました。つづいて俗論党の処分が速やかに行なわれ、中川宇右衛門は切腹、椋梨藤太、小倉源右衛門らは野山獄に移される途中で自刃しました。その他、謹慎処分、遠島に処せられた者たちもいました。
 これによって幕府との妥協の途を断ち切った長州藩は、決死の覚悟を確認することになりました。ことに臨んで毅然として対処する小五郎の政治手腕は見事というほかありません。藩主父子の懸命な説得により辞任を思いとどまった小五郎でしたが、彼の苦労はこの後もまだまだつづいてゆくことになるのです。


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