木戸孝允への旅はつづく 6


青年時代(江戸)

● 小五郎、米艦乗組みを企てる

長崎で目的を果せなかった松陰は、萩に立ち寄ってから再び江戸に向いました。この間、11月に幕府は相州の警衛を彦根藩に代わって長州藩に命じました。その範囲は鎌倉、三浦二郡の69村にわたり、藩主はその防衛策について有為の藩士に意見を求めました。小五郎も意見書を提出しています。その内容は、
「今度幕府より浦賀お固めを仰せつかったのは誠に武門のご面目、ご先祖様にもさぞご大慶のことと存じます」からはじまり、幕府への忠誠、皇室ご守護、攘夷安民を強調しています。したがって、この時点では小五郎に幕藩体制に反対する意思はみられません。
防衛に関しては、兵力の不足を農民を使って補えばよいとしています。これは小五郎が江川太郎左衛門の「農兵論」を学んでいた影響もあったことと思われますが、彼らが地理に詳しいこと、父母の地を大切に思うことなどを指摘し、畑仕事ができなくなるので年貢を減じるとか、農民の負担に対する配慮も必要であると述べています。奇兵隊が結成される以前から、小五郎が農兵の利点について指摘していることは注目に値するでしょう。

嘉永7年(1854)1月、ペリーが7隻の艦隊をひきいて再来しました。3月3日には、米側の圧力に屈した幕府は長崎のほか、下田、函館を開港することを約した「神奈川条約」を結びます。ここにおいて長崎で密航を果せなかった吉田松陰は従者の金子重輔とともに、米艦乗込みを決意するのです。ところで、これより少し前に長州藩士来原良蔵が米艦乗込みを企てていました。来原(くりはら)は大組士福原家の三男に生まれましたが、13歳で親戚来原家の養子になりました。一つ歳下の松陰とはきわめて親しい関係にあり、小五郎の妹治子はのちに良蔵に嫁いでいます。来原はこの計画に小五郎を誘ったのです。小五郎はすぐに同意しました。外国を自分の目で見て、直接の情報を得たいという思いは松陰と同じだったのでしょう。しかし、二人は密航しようとしたのではなく、藩庁に堂々と渡航願いを提出したのです。それは同年2月末日のことでした。
驚いたのは藩庁です。鎖国の禁を破って外遊させてほしいと言っているのですから、そんなことが幕府に漏れたら二人は厳罰に処せられ、藩自体もどのような咎を受けるか知れたものではありません。この外遊許可申請書は大組頭の手元で握り潰されました。幸い、このときの藩庁内における実力者は二人と親しい周布政之助でした。二人が藩からも罰を受けないよう、すべてなかったことにしたのです。

吉田松陰が米艦乗込みを決行したのは、そのあとのことでした(松陰のこの事件については司馬遼太郎の小説「世に棲む日日」などに詳しく書かれています)。どうやら来原良蔵が松陰に密航をすすめたようです。3月5日に松陰、来原、赤川淡水(長州藩士)、宮部鼎蔵ら9人がこの計画のことで酒楼・伊勢本で会合しています。松陰は浪人なので密航しても藩に迷惑はおよばないということで、本人は大いに乗り気でしたが、宮部が「実現性が乏しい」といって最後まで反対しました。しかし、来原が「今、海外の情勢を探ることが急務である」と強硬に主張したので、ついに宮部も賛成し、松陰に自分の太刀を与えて餞(はなむけ)の歌を贈っています。小五郎はこの席にはいませんでしたが、松陰の密航計画については知らされていました。彼は来原と相談して松陰に舟を提供しようとしましたが、のちに二人に咎がおよぶことをおそれて、松陰はこれを断りました。
松陰の米艦乗込みが失敗して奉行所に捕えられたことを知った小五郎は、なんとか救おうとして、幕吏を買収して松陰と従者の金子を釈放させよう、などと言い出したのですが、公然たる国事犯に対してそれはどう考えても無理なことでした。幕吏はこの動きを察知して、小五郎と良蔵を疑ったのですが、幸い捕えられるにはいたりませんでした。
周布政之助は藩に提出するこの事件の報告書を作成するにあたって、関係者をできるだけ少なくすることに努めました。しかし、先に外遊願いを出していた小五郎と来原のことは書かざるを得ませんでした。この二人のほかに井上壮太郎(明倫館での松陰門下生)という藩士の名が松陰と親しい者として挙げられました。「三人は相模の任地にいたので直接犯行にかかわったとは思えないが、今後松陰を救うために何をしでかすかわからないので注意を要する。しかし、謹慎を命じると、かえって幕府に疑惑を持たれることになる」などと藩を脅すような意見を述べたので、藩も怖れて誰も罰することができませんでした。
松陰の密航未遂事件に連座して幕府から罰せられた人は、烏山新三郎(江戸において松陰は同宅に逗留していた)が幽閉、佐久間象山が入獄となり、宮部鼎蔵には帰国が命じられました。長州藩の犠牲者は、烏山の塾生(蒼龍塾)、白井小助が獄中の松陰に金品を贈ったことで銀15匁の過料に処せられただけでした。小五郎らほかの藩士たちも松陰にお金を贈っていたのですが、なんとか追求されずにすみました。4月15日から江戸伝馬町の獄舎に入っていた松陰は、9月に藩邸に幽閉となり、10月24日には萩に護送されて野山獄に入獄、金子重輔は岩倉獄に入れられました。

同年9月27日、藩命により江戸にあった小五郎の義兄、和田文譲がにわかに病んで、亡くなってしまいました。分譲は二人の妻(小五郎の異母姉、捨子と八重子)に先立たれたあと、三番目の妻を迎えていました。つまり和田家には小五郎の実妹治子、文譲の3人の子(三男の勝三郎は小五郎の養子)と血縁のない未亡人が残されたのです。心配した小五郎は妹治子に手紙を書き「来年中には一度萩へ帰るつもりだ」と伝えています。


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