木戸孝允への旅はつづく 61


風雲篇(長崎、山口、京都)

● 征長の勅許下る

 坂本龍馬の仲介によって、薩摩藩が長州藩の武器購入に協力する約束をしたので、小五郎は伊藤と井上を長崎に派遣し、鉄砲のほかに蒸気船の購入についても指示を与えました。大宰府から土佐藩士の楠本文吉が長崎まで同行し、二人は薩摩藩邸に潜入、家老小松帯刀と会談し、薩摩藩の名義でイギリス商人グラバーから武器を購入することになりました。ミニエー銃 4,300丁と旧式のゲベール銃3,000丁(代金:約9万2千両)、そしてイギリス製の蒸気船ユニオン号(300トン)を7万ドル(3万9千両)で購入しますが、この船の買入れで藩の海軍局の態度が硬化してしまいました。
 伊藤や井上に船の調達を依頼した覚えはない、と言うのです。なにか藩要路のあいだで連絡の不備があったらしく、海軍局がへそを曲げてしまったようです。小五郎は山口にもどって海軍局の懐柔に努め、前原や広沢の助力も得て、なんとか船の購入を認めさせることができました。この船が「乙丑丸」(桜島丸)です。なお、井上は亀山社中の上杉宗次郎らの仲介で、小松とともに長崎から鹿児島にわたって、大久保一蔵(利通)や家老桂久武とも面会しています。
 その後、海軍局は武器についても薩摩藩を介した調達を好まず、妨害するような行為に出たので、小五郎は嫌気がさし、再び辞意を表明することになります。この時は高杉晋作が協力を申し出てくれたので、藩は小五郎を説得し、高杉とともに海軍興隆用掛に任命しました。これで海軍局の上に立って改革ができるようになりました。

 そのころ、坂本龍馬がまた山口にやってきました。
「薩摩兵が上京する予定なので、下関で糧米を売ってもらえないか」
 と言うので、長州藩はこの依頼を快諾しました。両藩の協力関係が成立し、連合への準備は着々と整ってきました。もっとも、この長州米については西郷が遠慮して受け取らなかったので、最終的には龍馬が主宰する亀山社中がもらい受けることになったようです。

 その時期に、英仏米蘭の連合艦隊が兵庫沖に現れ、条約勅許、兵庫の早期開港、関税率の引下げを要求していました。将軍家茂は長州再征のため、すでに京都にあってその対応に苦慮していました。幕府側の意図はまず朝廷から征長の勅許を得ることでした。薩摩藩では大久保、西郷が積極的に反対運動をしていましたが、一橋慶喜に押し切られ、9月21日には長州再征の勅許が下りました。
 10月には条約が勅許され、税率もそれまで20パーセント前後だった輸入税が、翌年5月には一律5パーセントに引き下げられました。日本は清国なみの税率を押しつけられ、植民地化に一歩近づくことにもなったのです。日本が関税の自主決定権を回復するのは、ほぼ半世紀を経た明治44年になってからでした。

長州再征の勅許は下りましたが、再征の理由がはっきりしないとして、反対する大名もいて、足並みはそろっていませんでした。出兵にともなう莫大な費用の負担も多くの大名を消極的にしたようです。薩摩藩ははっきりと出兵を拒否していました。また、この頃までにはイギリス(パークス公使)は薩長寄りに動いており、フランス(ロッシュ公使)は幕府を支援するという英仏対立の状況も生じていました。ロッシュは幕府に軍事援助を申し出ており、勘定奉行の小栗忠順(上野介)が征長を強く主張したのも、こうした背景があったからでした。小栗はのちに600万ドルの借款契約、武器・軍艦の購入契約をフランスと結んでいます。

こうしたなか、西郷の密使として、京都から黒田了介(清隆)が12月に下関にやってきました。


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