木戸孝允への旅はつづく 62


風雲篇(山口、下関)

● いざ、京へ

 黒田は土佐の脱藩士池内蔵太に案内されて、馬関で小五郎と面会しました。彼は、西郷はいま京都を離れられないので、あなたが上京してぜひ西郷に逢ってほしい、と小五郎に懇請しました。でも、西郷には以前に一度、待ちぼうけをくらってすっぽかされており、薩摩への不信感がぬぐいきれない小五郎は即答を避けました。一方、黒田と逢った高杉晋作は、小五郎の京都行きには異論を唱えませんでした。

 木戸貫治上京の件について、私に異論はございません。老兄がたへもお逢いしてお話申し上げますが、ご異論なきようお願いいたします。本件については井上が周旋の任についております。

 といった内容の手紙を12月9日付で、高杉は山県狂介(変名:萩原鹿之助)に書いています。この年(慶応元年)の9月に小五郎は木戸貫治、高杉は谷潜蔵と藩命によって名前を変えています。ふたりは「お尋ね者」ですから、幕府の追及の手を逃れるために改名の措置をとったのでしょう。しかし、ここではもうしばらく小五郎の名で話をすすめることにいたします。

 小五郎が懸念していたのは藩内の事情もありました。なによりも薩摩に対する奇兵隊の反発が大きかったのです。それに一部に幕府恭順論はいぜんとしてくすぶっており、こうした状況では自分が京都に赴いて薩摩と提携の交渉をしている間に藩論がどう変わるかわからない。まずしっかりと足元を固めなければ、うかつに動けるものではない――小五郎の心境はまずこういったところだったでしょう。

 小五郎にとって幸いだったのは、高杉、山県、井上、前原、広沢など、藩や奇兵隊の指導層が薩摩との提携を支持し、小五郎の上京を実現させるために相当に努力してくれたことでした。奇兵隊は、俗論党と戦って今日にいたった功は自分たちにあるのだという意識が強く、相当驕るところがあったようです。前原は小五郎に宛てた手紙で、
「奇印(奇兵隊)などの傲慢無礼、眼前の苦心、実に少なからず。よほど気をつけなければ、他日の大害にもなりかねません。近ごろでは大望ある者は大抵、奇印に集まってきます。恐るべし。これは内緒ですよ」
などと慨嘆し、山県もこうしたムードを察して、外国艦隊との和議の交渉時などには、奇兵隊をわざわざ馬関から三田尻に移すなどの措置を取っています。まして薩摩との提携などは、とうてい受け入れられることではなかったでしょう。

 だが、現実的には長州藩が生き残る道は薩摩との和解・提携以外にないことは明らかでした。坂本龍馬はすでに馬関にもどっており、藩庁の要人たちとも話をして、薩長連合の必要性を熱心に説いていました。中岡慎太郎はもとより、この実現へ向けて活動を続けていました。

 それでも小五郎は、薩摩が本気なら、長州人にとって危険な京都に招くことは配慮を欠いているではないか、なぜ向うからやってこないのだ、という気持ちを拭いきれませんでした。危険を厭うわけではない。しかし、これまでの経緯を考えれば、薩摩のほうから代表者を長州に送るのが筋ではないかと、彼は思っていたのです。結局、小五郎は、
「黒田とは意見を異にするので、彼の勧誘に応じて京都に行くことはできません。どうかうまく断ってください」
 と藩政府に辞退の手紙を書きました。これを聴いた高杉は井上と相談し、坂本とも話し合ったと思われます。小五郎の説得に動き出したのです。
「体面にこだわる必要はないでしょう」 と高杉は小五郎に言います。
「藩を代表して薩摩の要人と渡り合うにふさわしい人物は、あんた以外にいない。それはわかっているはずだ」
「……」
「万一、薩人の手に斃れても、それによって長州藩の士気はいっそう高まることになる。だから、けっして犬死ではないよ」
 高杉がこう言ったのは、薩摩は桂をおびき出して殺すつもりではないか、と疑惑する者たちがいたからです。
「もし、あんたが殺られたら、かたきは必ず俺たちがとってやる」
「……」
「あんたも男だろう、桂さん。長州のために黙って京都へ行ってくれないか」
 高杉は真剣な眼をして小五郎をひしとみつめます。小五郎もしばらく相手の眼を見つめ返していましたが、やがて、
「わかった、晋作。京都へ行こう。あとのことはよろしく頼む」
 小五郎の決意をきいて、高杉はふっと笑みをこぼし、
「それでこそ尊攘志士の代表、桂小五郎だ。どうせ、お尋ね者同士。どちらが先に斃れるかわからぬが、勝負はこれから。幕府軍にひと泡ふかせてやろうじゃないか」
 そんな会話がかわされたかもしれません。高杉には、薩摩が小五郎を殺すはずがない、とわかっていたのでしょう。

 12月21日、藩主が小五郎を呼んで、京都の形勢視察を名目に、正式に上京の命を下しました。山県は小五郎の同行者として、奇兵隊から三好軍太郎を推してきました。あとは御盾隊の品川弥次郎、遊撃隊の早川渡が小五郎の護衛として京都に行くことになりましたが、これはのちになって異論が出ないようにするためでもあったのでしょう。土佐藩士田中顯助(光顯)も同行者のなかに入りました。どうやら小五郎の地歩固めの意図は実を結んだようです。

 12月27日、小五郎ら一向は、黒田了介とともに三田尻から船に乗って大坂へと向かいました。このときに小五郎が詠んだ詩があります。

剣を懐き潜行して帝郷に入る
ただ期す一撃豺狼を斃さんことを
十年の素志未だとぐるあたはず
暗涙むなしくふるってかの蒼に訴ふ

 その日までの長州藩の運命をふり返って、感慨を新たにしたことでしょう。「余、白面京都にいたり、薩人と面会するに忍びず」と彼はのちに自ら記していますが、いろいろと複雑な思いはあったようです。でも、もうあとには引けません。この難局を乗り切るためには、やはり薩摩との提携は必須であると、小五郎は気持ちを新たにします。もはや前進あるのみ。
 いざ、京へ――。


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