木戸孝允への旅はつづく 63


風雲篇(大阪、京都)

● 薩長連合成る

 小五郎一行が大阪に着いたのは翌慶応2年1月4日。幕府が破壊した大阪藩邸の廃墟や天王山を見て、小五郎は「禁門の変」を思い、悲憤を新たにします。「天王山下を過ぎ、慨然流涕(りゅうてい)せざるものなし」と、彼はのちに追想しています。
 8日には淀川を遡って伏見に着くと、西郷吉之助と村田新八が出迎えに来ていました。このときが小五郎と西郷の初対面だったでしょう。その後、京都二本松の薩摩藩邸に入ると、小五郎一行はこの上ない歓待を受け、小五郎からは西郷と家老の桂久武に長州産の鍔大小を贈りました。大久保一蔵、小松帯刀らとも面会しています。

 14日には小松の屋敷で桂久武をまじえて会談が開かれ、西郷は黒縮緬の紋付羽織を着て下座にすわり、小五郎らを丁寧に応接しました。しかし、それ以後は毎日ご馳走攻めにされるばかりで、具体的に連合の話が出されることはありませんでした。

「在留ほとんど二旬、しかし未だ両藩の間に関係するの談に及ばず。余、空しく在留するを厭い、一日拝辞し去らんと欲す」

 と小五郎は自叙に書いています。20日には別宴が開かれ、小五郎らは長州に帰ることになりました。この日、坂本龍馬が京都に到着し、薩邸に小五郎を尋ねて来ました。さっそく坂本は、「誓約のことは成ったのか?」と訊ねるので、小五郎は「まだそこまで話が進んでいない」と答えます。坂本は驚き、
「わざわざ京都まで足を運んで、両藩の要路が会合したというのに、いったい今まで何をやっていたのだ」と怒りだしました。
「まったく理解に苦しむよ。俺たちが東西に奔走するのは長薩両藩のためだけじゃない。天下の形勢を憂えてのことなのだ。ここは瑣末な痴情猜疑を棄て、互いに腹を割って天下のために将来のことを協議するべきではないのか」
 坂本の苦言に対して、小五郎は苦しい胸のうちを明かしました。
「君の言い分はわかる。だが、長州藩はいま、天下に孤立している。それに引きかえ薩摩は公然と参内し、公然と幕府とも会し、諸侯とも交わっている。わが長州のごときは天下みな敵、幕府軍はすでに四境に迫っている。そんな状況でこちらから連合のことを話せば、彼らを危険の地に誘うようなものではないか。いきおい援助を乞うかたちになり、長州人はこれを潔しとはしない。僕はこれをはじとする」
 小五郎は長州藩を代表して薩邸に来ていました。国許で幕軍との戦いの時を待つ仲間たちの想いは痛いほどわかっていたでしょう。一死を決した一人ひとりの顔も思い浮かんだに違いありません。

「薩州、皇家に尽くすあらば、長州滅するといえども、また天下の幸いなり」

 自分から口を開くことは決してできないのだ、と言い添える小五郎の言葉を聞いて、坂本は彼の悲痛な決意を察し、これ以上責めることはできませんでした。この最後の言葉は、薩摩がこの時点で討幕を視野に入れていることを、小五郎が確信していた証ともいえます。18日には薩摩藩の老臣島津伊勢が西郷、大久保、吉井らとともに午後2時から小五郎と逢い、互いに国事を談じて深夜にまで及んでいますから、薩長連合の内容はそのときに概ね話し合われていたものと察せられます。それはわかっている。しかし、明確な誓約がほしい、というのが小五郎の切なる想いで、その気持ちを適時にやってきた坂本龍馬にぶつけたのでしょう。

 坂本はただちに踵を返して西郷のもとに走ります。長州の立場、木戸の苦衷を察せよ、と彼は西郷に説いたのでしょうか。このときには小五郎は木戸貫治を名乗っています。西郷の呑み込みははやく、小五郎に滞在の延期を求めてきました。
 こうして小五郎は改めて西郷との会談にのぞみ、薩摩側から連合の申し出がされました。坂本の同席によってその生き証人も得ることができました。なお、前日の19日には幕府側の長州処分が決定されています。すなわち、毛利敬親の蟄居隠居、世子広封の永世蟄居、三家老(益田、福原、国司)のお家断絶で、この内容は近衛家をとおして西郷の耳にも入っていたことでしょう。

 薩長の秘密軍事同盟ともいえるこの盟約の内容は六箇条からなり、要約すると、 一、幕長戦が開始された際には、薩摩は2千の兵を畿内に送って京都、大阪の守りを固めること(幕府軍をけん制)。 二、長州が勝利したら、朝廷に告げて(政局を有利に導くように)尽力のこと。 三、万一負けても、一年や半年で壊滅することはないので、その間に(薩摩は長州藩のために)必ず尽力すること。 四、幕府軍が兵を引いた場合には、朝廷に長州の冤罪を告げて、許しを得るように尽力すること。 五、兵力をもって一橋、会津、桑名らが朝廷を擁し、正義を拒み、周旋尽力の道をさえぎった際には、もはや決戦のほかないこと。 六、冤罪もはれたら、双方誠意をもって協力し、皇国のため、皇威回復に尽力すること。

 こうして見ると、薩摩はいかなる場合も、長州を救う手立てを講じることを約束しています。長州の代表たる小五郎にとっても申しぶんのない内容だったと思われますが、彼はこれで本当に満足したのでしょうか。薩摩に対する猜疑心はこれで払拭されたわけではなかったと思われます。小五郎が本当に求めていたのは、やはり署名血判の成文を取り交わすことだったのではないでしょうか。それを断念したのは、第一に薩摩にその意思がなかったこと、第二に坂本龍馬という証人を得たことで、多少の安心をおぼえて諦めがついたのでしょう。

 しかし、帰藩途上で六箇条を記した手紙を坂本に送ってその裏書を求めたことで、小五郎がいかにその文書化を願っていたかは察することができます。万延元年(1860)に、小五郎は水戸藩の攘夷派、西丸、岩間らと「成破の盟」を結びましたが、その際に双方は血盟書を交換しています。男子たるものの誠心はその行為にこそ顕れるものと、彼は思っていたに違いありません。
 しかし、交渉の駆け引きはあるもので、小五郎は最初の会合で、薩摩と長州との過去の経緯について話し、長州の言い分を堂々と述べています。長州の弱みを見せることなく、あくまでも対等の関係であろうとしたのでしょう。西郷も「ごもっともでございます」と、大人の対応をしています。
 それでも薩摩が自藩の立場の優位をくずしたくなかったのは当然ともいえます。できれば口約束でとどめ、提携の証拠を残したくない、というのが薩摩側の本音だったでしょう。

 いずれにしても、ここに薩長連合は成りました。このときから、幕末の歴史は明治維新へと大きく舵を切ることになります。


前へ  目次に戻る  次へ