木戸孝允への旅はつづく 64


風雲篇(京都)

● 坂本襲わる

 薩長連合の締結は薩摩藩の幕府ばなれを決定づけるとともに、長州藩を護りの反幕から、攻めの討幕へと進ませることにもなりました。幕府にとっては皮肉なことに長州再征の決定が、この藩を「窮鼠猫を咬む」決死の状況に追い込み、薩摩藩には「長州の次はわが藩が攻められるのではないか?」という猜疑心を抱かせ、結果的に窮鼠を救う行為に走らせることになってしまったのです。もはや雄藩連合の望みは断たれ、幕府は独裁で物事を決し、逆らう藩はすべて討伐するつもりなのだ、と疑惑したのは薩摩藩だけではありませんでした。尾張、越前、熊本、肥前、筑前、因幡などの西南諸藩も幕府に対して警戒心を抱いたようです。そんな状況で、再征の軍を出すことにも積極的ではありませんでした。

 さて、薩長提携の仲介をした坂本龍馬ですが、その後彼は長府藩の三吉慎蔵が待っている伏見の寺田屋に向かいました。三吉は宝蔵院流の槍の名手で、坂本の護衛役として下関から行動をともにしていました。奉行所はうかつにも桂小五郎の京都潜入には気づきませんでしたが、坂本が長州藩士を伴って伏見まで来ていたことを探知したのです。土佐人が長州人と組んで、何ごとかを企んでいると思ったのでしょうか。奉行所は与力、同心およそ100人を集めて寺田屋を襲う準備を整えていました。

 正月23日の深夜に捕方が寺田屋をとりかこみました。寺田屋の女主人お登勢によると、
彼女は風呂から上がって火鉢にあたっていた。「ちょっとたのみます」と、誰かが表の戸を叩く音が聞こえた。何事だろうと出てみると、後ろ鉢巻をし、抜き身の槍を持った100人ばかりが勢ぞろいしていた。
「何事でしょうか?」とたずねると、
「二階に侍が二人いるだろう」というので、もう隠せないと思って答えた。
「はい、おります」
「どうしている」
「まだ寝ずにお咄しされています」
 すると、彼らはひどく心配した様子で、「どうしようか」とか、「だれいけ、かれいけ」と騒々しく言い合っているだけで、なかなか上がろうとしない。

――こんな人がいく万人捕手にかかるとも、その両人にはかなわずということ、心のうちに思い、このだん安心いたしおりました。
 と、お登勢はのちに坂本宛の手紙に書いています。

 そのとき、寺田屋の養女お龍は入浴中でした。外の物音を耳にすると、すぐに窓から槍が突き出されたので、おもわずつかみ取り、こんな無礼をした者はだれだと、大声で文句を言いました。すると、
「静かにしろ。騒ぐと殺すぞ」と威すので、
「おまえさんなどに殺される私じゃないよ」
 と気丈な彼女は風呂から出ると、濡れ肌に袷一枚をひっかけて、帯も締めずに二階に通じる裏の階段を駆け上っていきました。
 お龍の注進によって、三吉はすばやく袴を着けて槍をかまえ、坂本は湯上りに浴衣と綿入れを着ていたので身支度はできませんでしたが、高杉晋作にもらった六連発銃をもって待ちうけました。
 やがてひとりの男が障子をあけたので、「何者か」とどなると、慌てて行ってしまいました。坂本はお龍に唐紙をはずすように告げ、彼女がそのとおりにすると、10人ばかりが槍をもって居並んでいました。
「いかなれば薩州の士に無礼をいたすぞ」
「上意なり。すわれ、すわれ」
 と捕方が近よって来るので、坂本は拳銃を発射しました。すると、向こうは槍を投げ、火鉢を投げするので部屋中が灰神楽のようになりましたが、3発のうち2発が命中したようです。坂本は捕吏のひとりに斬りかかられて、親指を負傷してしまいます。それでもあと2発撃ち、1発が三吉と対峙していた男に命中すると、捕吏たちは算を乱して逃げ出しました。
 拳銃の弾はすでになかったので、坂本は回転弾倉をはずして弾丸を込めはじめますが、怪我をしているので思うようにいきません。ついに諦めて「銃は捨てた」と三吉に言うと、三吉は「拙者が敵中に突き入ろう」と答えます。
「いや、いまのうちに裏から逃げよう」
 坂本の言葉にしたがって三吉も槍を捨て、ふたりは裏階段から脱出し、隣の家の雨戸をけやぶって通りに出ると、幸い捕方はひとりもいなかったので、五町ほど走って川端の材木置場に逃げ込みました。坂本は指からの出血がはげしく、もう歩くことができません。もはや逃げ切ることは無理だと思ったのでしょうか。三吉が「切腹しよう」と覚悟の言葉をもらします。しかし、坂本は、
「死は覚悟のことだが、君はこれより薩摩藩邸に行ってくれ。敵人に逢えばそれまでだ。そのときは僕もここで腹を切ろう」
 三吉は坂本を救うのだ、という使命感を抱いて川端をおりていきます。服についた血を洗い落とすと、道ばたで古い草履を拾って伏見の薩摩屋敷をめざしました。そのころ、お龍がすでに藩邸に急を報じており、そのままかくまわれていました。坂本の行方がわからなかったところ、三吉が薩摩邸にたどり着いて、彼の居場所を知らせたのです。留守居役の大山彦八がただちに船の支度を命じ、丸に十字の船印をたてて迎えに行きました。
 坂本を無事船に乗せてもどると、お龍が喜んで駆け寄ってきました。
「おまえはもう来ていたのか」
 お龍のすばやい行動に、坂本も感激したことでしょう。

 伏見藩邸はせまいうえに在勤の藩士も少なく、いつ奉行所がかぎつけるかわかりません。そこで、西郷のいる京都の藩邸に使者をだし、事情を説明しました。西郷は眼を丸くして驚き、おいがいく、とめずらしく興奮して言いました。友情もあったでしょうが、坂本はなんといっても薩長連合の生き証人です。けっして幕府の手に奪われてはならない人物でした。
 でも西郷が動けばかえって目立ってしまいます。けっきょく思いとどまって、一個小隊(60人)に医師をひとりつけて送り出しました。その後、30日に坂本、三吉、お龍の3人は京都の薩摩屋敷へひきとられました。そこで坂本とお龍は西郷、小松立合いのもと、正式に祝言をあげました。
 薩摩邸では小五郎からの連合の内容を記した手紙を受け取り、彼はその裏書をして2月5日付で小五郎に送り返しています。すなわち、

表にお記しなされ候六条は、小(小松)、西(西郷)両氏
及び老兄(木戸)、龍(龍馬)等もご同席にて
談論せしところにて、毛(すこし)も相違これなく候
後来といへども決して変り候ことこれなきは
神明の知るところに御座候。

2月29日、坂本夫妻と三吉慎蔵は西郷らの帰国の行列にまじって京を発ち、大阪から薩摩の汽船に乗り下関経由で鹿児島に向かいました。三吉は下関でおりています。小五郎はすでに長州にもどっていましたが、薩摩の動きに対してはまだ神経を尖らせていました。


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