木戸孝允への旅はつづく 65


風雲篇(広島、長州)

● 幕長開戦前夜

 薩長連合がひそかに結ばれたころ、幕府側では勘定奉行・小栗忠順、外国奉行・栗本安芸守、老中・小笠原長行(ながみち)ら主戦派が勢いを強めていました。既述したようにフランス公使ロッシュは彼らに肩入れして、さかんに長州征討の戦略をさずけていたばかりでなく、軍艦や武器の調達、巨額の資金援助さえも約束していました。
 一方、イギリス公使パークスは薩摩藩との関係を深めており、薩摩の指導層と長崎で会見するという情報が長州にも入ってきました。小五郎はその目的を探ろうと、伊藤に偵察を命じましたが、高杉も同じ気持ちで「長崎に行って彼らの会合に参加したい」として、3月後半には伊藤といっしょに長崎に渡りました。でも、まだ会見の気配はなく、井上の情報などでフランスの動きも警戒していた高杉は海外渡航を企てはじめました。ヨーロッパに渡って英仏の情報を得ようとしたのでしょうか。この時期に高杉らしいとっぴな着想ではありましたが、幸い実現はしませんでした。

 2月には小笠原長行が広島にやってきて、藩主父子、長府、清末、徳山、岩国の四支藩の藩主、家老に広島への出頭を命じ、この期限を4月21日と告げました。長州藩からは山県半蔵(宍戸備後助と改名)と小田村素太郎が広島に出向いて幕府側との交渉にあたっていましたが、長州側はすでに決戦の覚悟を固めていたので応ずるはずもありません。小笠原はやむなく、しかるべき代理をよこせ、と命じます。ところが長州側は山県を一門筆頭の宍戸家の養子にして、藩主父子の名代として再び広島に派遣したのです。交渉の引き延ばし作戦でもあったのでしょう。再三にわたって回答を延引し、そのあいだに着々と戦争の準備を整えていました。

 怒った幕府側は、5月に入って桂小五郎、高杉晋作、太田市之進、波多野金吾ら12人の身柄を差し出すよう要求してきました。これに対して長州藩は、小五郎は行方不明、晋作ら4名は脱走、その他は死亡と返答しました。もとより長州藩が彼らを素直に差し出すはずはないと思ったのでしょうか。幕府側は5月9日には宍戸と小田村を逮捕して拘禁したうえで、十万石の減封、藩主の隠居、世子元徳は永蟄居、家督は長男の興丸に継がせることを改めて告げ、5月29日を回答の最終期限とし、命に服さなかった場合には6月5日をもって開戦とする旨を通告しました。

 その間、高杉は長崎から海外にゆくつもりだったのですが、幕長戦が間近なことを知って断念し、オテントー丸(94トン)を独断でグラバーから購入し、馬関にもどってきました。もちろんお金は一文も払っておらず、井上が小五郎に事情を説明して、藩へのとりなしを頼みました。

 晋作め、またやってくれたか――と小五郎は思ったでしょうか。

 それでもこの時期、軍艦は一隻でも多くあったほうがよいに違いなく、小五郎が藩主に訴えて、3万6千両+付属品の代金を特別会計の撫育金から引き出すことに成功しました。この船が丙寅(へいいん)丸で、のちに高杉の海上でのゲリラ戦で敵艦を相手に大活躍することになります。

 開戦がおくれた影響で、幕府軍はすでに江戸進発から1年以上経過しても、未だ大坂に滞留したまま無為に過ごしていました。当然、経費はかさみ、米や炭、薪、油などの生活物資の値段が上がっていき、とくに米価の上昇が甚だしかったのです。そのため5月には兵庫で米騒動が起こり、すぐに大坂にも飛び火しました。困窮した下層民が大勢あつまって米屋に押しよせ、酒屋や質屋も襲撃の対象になりました。

 騒ぎは将軍のいない江戸でも発生し、あちこちで打ち壊しが起こって大混乱に陥っていました。あわてた幕府は彼らを慰撫するために約37万人に対して42万貫(約5万2,800両)のお救銭を支給して、ようやく難を逃れたのです。すでに徳川の支配体制は足元から揺るぎはじめていました。幕府内には大久保一翁や勝海舟のように長州再征に反対する者たちもいましたが、彼らは勘定奉行、軍艦奉行をそれぞれ罷免されており、反対派はなりを潜めている状況でした。

 幕閣の評判が必ずしも良くない一橋慶喜は会津、桑名両藩との結束をかため、長州征伐を成功させて、勢力を伸ばそうという政治的野心を抱いていたようです。もはや、開戦は避けがたいところまで迫っていました。


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