風雲篇(大阪、長州・大島)
● 幕長戦(四境戦争)・その1
来るべき幕長戦において、幕府がわは当然ながら薩摩藩の戦力を期待していました。しかし、すでに長州と同盟していた薩摩が応ずるはずもありません。4月には大久保一蔵(利通)が、出兵を拒否する意見書(名義人は大阪の薩摩藩邸留守居役・木場伝内)を老中板倉勝静に直接会って手渡しました。内容を要約すると、
朝廷は寛大な処分をお望みであるのに、それに反して再征することにはいろいろと議論が沸き起こっております。征伐は国家の大事、後世歴史に恥じない大義名分がなければ、至当とはいえません。幕府は世を安穏に保つのがお役目なのに、かえって乱を起こすとは何事でしょうか。天理にもとる戦いは、大義においてお請けしがたく、たとえ出兵の命令があっても、やむを得ずお断り申し上げます。
かなり露骨な幕府への批判が盛り込まれています。さすがに板倉はこの受取りを拒否しましたが、大久保はひるまず、再び板倉に会ってその理由を質し、さらに朝命に反した六箇条を挙げて詰問さえする大胆さでした。兵庫開港の件までも持ち出して責めたてる大久保の押しの強さに、閣老もたじたじとなり、ついに薩摩藩の書を受け取らざるを得なくなりました。
幕府にとって、薩摩藩の出兵拒否は大きな痛手でしたが、出兵を拒否、あるいは辞退したのは薩摩藩だけではありませんでした。広島藩はこれまで幕府と長州藩を仲介する立場にあったので、もともと長州には同情的でした。広島藩主・浅野安芸守も、長州征討の大義名分を問題にして出兵を辞退したため、幕府軍は芸州口の先鋒を失うことになりました。ほかに宇和島藩、佐賀藩も出兵を止めています。
長州藩ではこの戦争を「四境戦争」と呼んでいます。すなわち、芸州(広島)方面、石州(山陰)方面、小倉(九州)方面、大島(瀬戸内海)方面の四方の国境で幕府軍を迎え撃つことになったからです。
大島口の戦い
幕長間の交渉が決裂したあと、幕府がわの攻撃は6月7日に始まりました。幕府海軍が上関と大島に砲撃をくわえ、幕兵と松山藩兵が上陸を開始しましたが、大島からは応戦する者がいません。実は、ここには守備兵が配備されていなかったのです。大村益次郎は、限りある兵力をこの島に割くことを諦め、敵が来襲すれば同島を棄てる覚悟で作戦を立てていました。したがって、島の住民が防衛にあたっているだけだったのです。
素人の農商兵ですから、一時の抵抗も持ちこたえられるはずがなく、たちまち後退してしまいます。敵の砲弾は無防備な村落へ容赦なく撃ち込まれ、逃げおくれた婦人や子供を殺傷しました。攻め入った幕兵は民家を放火、家財を焼失させ、婦女を暴行し、金品を掠め、さらに無人の農家に押し入って鶏、牛まで食べつくしてしまいました。
この幕兵・松山兵の乱暴狼藉、大島住民の惨状が伝えられると、藩論は沸騰し、幕軍を攻撃すべし、という憤激の声が高まっていきました。
6月13日の早朝、大島沖に停泊する幕府の軍艦4隻に奇襲をかけた者がいました。小型蒸気船・丙寅丸が敵艦の間を縫うように動きまわり、大砲を撃ちまくって、すばやく逃げ去ったのです。幕府がわは混乱してなすすべもなく、慌てて応射を開始したときには、丙寅丸はすでに射程外に遁れ去っていました。
「してやったり!」
艦首に立つ指揮官・高杉晋作の自慢げな笑顔が眼に浮かぶようです。
その後、小倉口に配置されていた奇兵隊の一部が大島方面に移動し、島を占拠していた幕軍と交戦。これに呼応して、農民たちも鍬や竹槍を持って戦闘に加わり、女子もまた同様に一戦士となりました。幕軍の襲撃は、のんびり平和に暮らしていた島民たちを団結させる結果となり、四方八方敵に囲まれた幕兵はついに敗走し、全軍が船に乗り込んで大島から退却していきました。幕府がわの緒戦の勝利もつかの間、17日には長州軍が島の奪還に成功したのです。
<補記>
両軍の戦力
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幕府軍 |
長州軍 |
芸州口 |
彦根藩、高田藩、幕府陸軍など
(約5万人) |
岩国藩、遊撃隊、御盾隊など
(約千人)
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石州口 |
福山藩、浜田藩、鳥取藩など
(約3万人) |
南園隊、精鋭隊、清末藩
(約千人)
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小倉口 |
小倉藩、肥後藩、柳川藩など
(約2万人) |
奇兵隊、報国隊、長州艦隊
(約千人) |
大島口 |
松山藩、幕府艦隊・陸軍
(約2千人) |
農商兵
(約5百人) |
軍艦
幕府側: |
蒸気船 − 富士山丸(1000t)、八雲丸、大江丸、翔鶴丸(350t)
順動丸(405t)など
帆船 − 旭日丸 (各藩の艦船を除く)
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長州側: |
蒸気船 − 丙寅丸(94t)、乙丑丸(ユニオン号 300t)
帆船 − 丙辰丸(48t)、庚申丸(200t?)、癸亥丸(283t)
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