木戸孝允への旅はつづく 67


風雲篇(広島、石見)

● 幕長戦(四境戦争)・その2

 大島での敗退は幕府がわの最初の誤算であったでしょうか。その前に幕閣は、将軍が自ら進発すれば、第一次征長戦のときのように長州藩は戦わずして降伏する、という期待を抱いていたようです。相手の死に物狂いの覚悟を甘くみていた、ということが第一の誤算なら、第二の誤算は薩摩の出兵拒否、そして、第三には広島藩の先鋒辞退ということになりましょうか。そのために、芸州口では彦根藩(井伊家)と高田藩(榊原家)が幕軍の先鋒を務めることになりました。井伊家、榊原家は「徳川四天王」の二家に数えられる譜代大名です。

芸州口の戦い

 慶応2年(1866)6月14日、大野の瀬戸内海上には何艘もの幕府軍艦がもうもうと石炭の煙を噴き上げていました。一方、山手がわでは井伊・榊原の軍勢が広島と山口の県境を流れる小瀬川を渡って、対岸の和木村へ侵入しようとしていました。前日から村をしきりに砲撃していたので、小瀬川口を守備していた遊撃隊(総管は石川小五郎、のちの河瀬真孝)、衝撃隊、岩国兵などが山に登って待機していました。陣羽織に立烏帽子姿の敵兵が押太鼓を打ち、法螺貝を吹き鳴らしながら進んできたので、一斉に銃を撃ちかけると、敵は不意をうたれて反撃もできず、算を乱して逃げ退きました。

 その体なんとも見苦しきありさま、と河瀬はのちに報じています。「馬に乗るものは溝に転じ、船に乗るものは小船へ多人数騒ぎて乗り組み候ゆえ、乗りながら潮水に没し〜 海面数百の遁兵、船に櫓(ろ)なく楫(かじ)なきは小銃にて船を漕ぎ、また船なくして海中ににげ込み、出没浮沈幾十人、その体実に憐れむべきの次第」

 この井伊・榊原勢の大敗北は幕府軍全体に相当なショックを与えたようです。新式の西洋銃を装備しているうえに軽装で、周辺の地理を知り尽くしている長州兵に対して、幕府がわは戦国時代さながらに、井伊家伝来の「赤備え」鎧武者が法螺貝を吹き、太鼓をドンドン叩きながら進撃してくるのですから、勝敗はおのずと知れるわけです。

 勢いに乗った長州勢は、紀州藩兵と大垣藩兵、幕府陸軍歩兵隊が拠点としている大野を奪取しよう目論みました。6月19日早朝、追手の四十八坂と搦手の松原の両道から大野に向って進撃、山上から眼下の敵に銃撃をしかけました。しかし敵は思いのほか手強く、退却もしないで反撃してくるのです。紀州藩の老臣・水野大炊頭忠幹(ただもと)が和流の陣立てをあやぶみ、独断でミニエー銃600挺を準備しており、歩兵隊も弱兵ではなく、粘り強く戦ったので、両軍ともに陣地を譲らず、この戦場ではこう着状態に入りました。

石州口の戦い

 この方面の主力は南園隊(総管は佐々木男也)で、他には精鋭隊、清末兵、須佐兵、大隊兵(増田家)などが守備していました。総指揮官は清末藩主毛利讃岐守でしたが、彼は戦地には赴かず、参謀として大村益次郎が直接指揮を執っていました。諸葛孔明の再来とまで称えられた大村の軍才は、この戦場ではじめて発揮されることになります。
 はじめ、長州兵の多くは医者出身の大村の実力を疑い、莫迦にしたような様子がありました。ところが、いざ実戦に臨むと、彼の作戦はことごとく図に当たり百発百中だったので、みな驚いて敬服しない者はいなくなったということです。

 石見の幕府がわの拠点は浜田藩領の益田でしたが、その途中には津和野藩がありました。この藩は4万3千石の小藩だったので長州の精兵と戦うことを望まず、衝突を避けて長州兵が領内を通過するのを黙認しました。そのため、長州勢は難なく浜田領に進入し、6月17日、直ちに益田を攻撃しました。ここには福山藩兵もいて、浜田兵とともに迎撃しましたが、激戦の末に敗退。近隣諸藩からの応援兵も出雲へ退却したので、長州勢は石見一国を占領するに至りました。この方面の戦いで数々の逸話を残した大村益次郎の軍略の賜と言っても過言ではないでしょう。

 その間のこと、浜田藩主が亡命して城が城兵によって焼き払われたあと、幕府は津和野藩からの援兵がないので、出兵を催促するため長谷川久三郎を軍目付として津和野城下に遣わせました。これを察知した長州方は、津和野藩へ長谷川の引渡しを求めて談判におよびました。しかし、長州に同情的な津和野藩でも公然とそうするわけにはいかず、藩外に送り出すからそのあとでなら、ということになり、当人が津和野領外に出たところで取り押さえ、山口まで連れていきました。

 ところが長谷川は捕虜の身となったことを非常に恥じて、絶食して死ぬ、と言いだしたのです。このとき、小五郎が彼と面会してよほど説得したようです。長谷川はついに小五郎の説得に応じて思いとどまったので、帯刀と杯を与え、ていねいに江戸に送りかえしたということです。


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