風雲篇(下関、山口、鹿児島)
● 小五郎の動向
今回は幕長戦における小五郎の動きを追ってみようと思います。
英仏への対応
幕長戦の開戦後、まもなくして小五郎は英仏の両公使と馬関で会談しました。フランス公使ロッシュは「長州が降伏を望むなら斡旋する」と言い、イギリス公使パークスは小五郎に和議を勧めたのです。フランスは明らかに幕府よりであることは小五郎にもわかっていました。しかし、イギリスの思惑がどうもよくわかりません。この時には、パークスも多分に意図的であったにせよ、かなり親幕的であり、小五郎が長州藩の立場を抗弁すると、高飛車な態度で怒り出しました。
「さきに攻めてきたのは幕府ですから、幕府のほうが停戦を求めてきたら考慮します」
小五郎は和議の勧告をきっぱりと拒絶しました。幕府の大軍に包囲されているにもかかわらず、この長州の代表者はいささかの弱みも見せず、毅然とした態度を崩そうとしない。ロッシュはこれまでの経験とは違う相手の反応に戸惑ったようです。それはパークスも同様でした。どうやらこの木戸という男に脅しは通用しない――長州藩の本気をパークスは悟って、以後、和議に触れることはありませんでした。
藩内の規律
開戦前に、小五郎が奇兵隊の軍監・山県狂介に伝えた指令は「幕府側から攻撃してくるまで発砲してはならない」というものでした。ところが血気盛んな南奇兵隊(第二奇兵隊)の兵らはこの方針に反抗して暴発し、書記・楢崎剛十郎を殺めると、銃隊長・立石孫一郎らおよそ100人が脱走。4月9日には倉敷の幕府代官所を襲って焼き払ってしまいました。
この報に小五郎は驚愕し、筑前、小倉、津和野の隣藩に、脱走兵が入ったら逮捕するように直ちに依頼しましたが、すでに立石らは浅尾領を奪って近くの寺に立てこもっていました。小五郎は備前藩にも手紙を送り、こちらで厳罰に処するつもりだが、彼らが領内に入ったら召し捕えて存分に処置するように伝えました。小五郎は彼らが虚言を流して、近隣諸国に疑惑を生じさせることを怖れていました。
一方、山県は他の隊員らが暴徒に雷同することを懸念して、小五郎に警戒するよう注意してきました。現に、八幡隊、集議隊の中に、この事件を壮挙としてあとに続こうと企てる者たちがいたのです。小五郎や山田宇右衛門ら政府員はこの状況を深く憂慮し、断固たる処分を決行して事件の再発を防ごうと考えました。井上聞太も南奇兵隊の暴発は藩主の誠意を損害し、国辱を招致するものだとして大いに憤慨し、脱徒を厳科に処分するよう小五郎に伝えてきました。
幕府軍との開戦前に、長州藩は実に危うい状況に陥ったのですが、やがて暴徒は捕えられ、立石以下48人に厳刑が科され、八幡隊、集議隊らの脱走兵もことごとく斬刑に処せられました。それ以後、諸隊の軍紀は見ちがえるほどひき締まり、藩内の動揺もまったく鎮静されました。小五郎は今回の事件について、長州藩に不利な嫌疑を一掃するために、芸州を含めた近隣諸国にも説明して、しっかり事後処理を行なったのです。
他藩にはなんの敵意もないことを伝え、自藩の兵士らには他藩領内での乱暴をかたく戒めました。小五郎の思慮周密な戦時方針はよく守られて、占領地では庶民も安心して各々の職業に勤しみ、平穏が保たれました。
のちに西郷隆盛は大久保への手紙の中で、長州藩の行動を「長州においては此のたびの始末、余程出来候事にて、兵站を開くところから破ったところまで、間然するところござなく、此処第一の訳と考え居り候ところ十分やり応し候に付〜」と、感心して述べています。 (註: 間然 - 非難や批判されるような欠点)
薩摩訪問
小五郎が藩主父子の使節として薩摩を訪ねたのは慶応2年11月のことでした。これは10月に薩摩藩から黒田嘉右衛門(清綱)が正使として長州藩を訪れたので、その返礼として小五郎が副使の河北一を伴って薩摩に赴くことになったのです。すでに9月には幕府の使節・勝麟太郎(海舟)が訪れており、長州がわの代表・広沢兵助(真臣)、井上聞多らと宮島で休戦協定が結ばれていました。
「桂は道理のわかる男でございますから、(停戦を)承知いたしますでしょう」
京都を発つ前に、勝は松平春嶽にそう言ったそうです。表向きは小五郎は行方不明ということになっていましたが、長州藩の中枢でだれが采配をふるっていたかは、幕府がわもはっきりわかっていたのです(当時、小五郎は下関にいて、砲台使用のことでイギリスと交渉するなどして忙しく、広島には行かなかった)。
小五郎一向を乗せた丙寅丸が桜島の沖に姿をあらわすと、薩摩がわでは21発の礼砲を放ち、紫の幔幕をはりめぐらした2艘の船が漕ぎ出て、まず正使の小五郎(9月に木戸準一郎と改名)を迎え、次に副使の河北一を迎えました。21発は一国の元首への礼式だそうです(首相、副大統領では19発、大使、閣僚では17発)。パークス(イギリス公使)が鹿児島を訪れたさいの礼砲でも15発だったということですから、薩摩藩では長州藩の使節・木戸準一郎らに対して最大級の処遇で迎えたことになります。薩長同盟はもはや揺るぎないものになっていたといえましょう。
この時期に、イギリスの軍艦アーガス号がたまたま薩摩に入港していました。西方諸藩の情報収集に動いていたアーネスト・サトウは、桂小五郎の来訪を耳にして、下関にいる友人(伊藤、井上)の安否を問うことを口実に、「桂に会いたい」と、薩摩藩の外国掛家老・新納に頼みました。新納は、
「桂は今夜10時に島津久光と会見し、翌朝3時には家老数名と会談する予定なので、どうしても会いたいなら彼の旅宿に泊まって、帰りを待ったらどうでしょう」
と答えました。時間的に新納の説明は不自然で、実際、夜の10時に小五郎が久光に会った事実はありません(会ったのは翌日だった)。おそらく、同盟のことを秘しておきたかったので、サトウを小五郎に会わせたくなかったのでしょう。しかし、サトウは敏感に感じとっていました。
――新納の話の模様からして、西国の諸藩の中で最も有力な薩、長2藩の間に目下和親の相談が進められており、今後薩摩と長州は提携して大君と対決するであろうということがわかったのである。(「一外交官の見た明治維新」)
のちにサトウが初めて小五郎と対面したのは翌慶応3年(1867)9月でした。その時の印象を彼は、「桂は軍事的、政治的に最大の勇気と決意を心底に蔵していた人物だが、その態度はあくまで温和で、物柔らかであった」(上記同書)と述べています。
大村藩
鹿児島で手厚い歓待をうけて無事使命を果たすと、小五郎一向は長崎を経由して山口にもどりましたが、途中で大村藩に立ち寄っています。「練兵館」道場時代の後輩である渡辺昇の依頼を受けて、大村藩の勤王党にテコ入れするためでした。同藩ではまだ藩論が揺れていたので、小五郎に直接説得してもらうことによって重役らの決断を促そうと、渡辺は期待していました。その効果は絶大で、藩要人の江頭隼之助は、
夢の夢 ゆめのゆめにて過ぎきしを 今宵はさめて君と語りつ
という歌まで詠んで、小五郎の説にまったく納得したのです。のちに渡辺(子爵)は、「大村藩が勤王の方針を堅くとったのは、大いに木戸公のおかげである」と語っています。
明治維新への胎動は、いよいよ地下から地表へと大きく振幅し出したようです。
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