木戸孝允への旅はつづく 70


風雲篇(京都、下関)

● 高杉晋作逝く

 時間を少しもどして、将軍家茂亡き後の幕府側の動きを追ってみますと、慶応2(1866)年7月20日に家茂が病死したあと、徳川宗家を継いだのは一橋慶喜でした。彼は家茂の喪を秘したまま「長州大討込」と称して、自ら征長軍を率いて出陣する計画を立てていました。すでに諸藩は幕府の思いどおりには動いてくれず、幕府の権威は失墜している状況でしたから、征長戦に負けたままでは、とうてい幕権の回復は見込めないと思ったのでしょう。
 ここはなんとしても山口まで攻め入って長州藩を屈服させなければならない、と松平春嶽らの反対論を押しきって出征の準備をすすめた慶喜でしたが、九州からの敗報が入ると、その決意を翻して朝廷に延期を申し出たのです。慶喜に天盃、節刀まで賜った天皇はたいそうお怒りになり、慶喜に味方した二条関白など公家衆も相当に困惑したようです。
 慶喜としては、もはや征長戦に勝機のないことを敏感に察知したのでしょう。すぐに勝海舟が呼ばれて、広島まで停戦の談判に出かけたことは既述したとおりです。
 12月5日に慶喜は将軍職を継ぎ、幕府の建て直しをはかって改革に着手します。フランス公使ロッシュの助言をうけて、戦国時代から続いてきた軍制度を廃して、旗本以下の家臣を銃隊に編成しなおし、洋式武器の製造もはじめます。
 また、政治面では老中の合議制をあらため、陸軍、海軍、外国事務、会計、国内事務の五局を設けて、その責任者に老中を専任させました。そして首席老中が将軍を補佐するという、内閣制度に似た体制がとられたのです。慶喜はあきらかに新体制に改めた幕府を中心とした、中央集権国家の樹立を目指していたと思われます。薩長の指導層はこの慶喜の軍・政改革に危機意識をつのらせてゆくのです。

 その間、長州では高杉晋作が健康を害し、7月下旬から白石正一郎宅でしばらく臥せっていました。でもすこし気分が良くなると、小倉攻めの戦線にもどって指揮するなどして、動きまわることを止めませんでした。8月末に喀血してから病状は回復せずに戦線を離脱、愛妾おうのが高杉に付き添って看病していました。
   9月6日には小五郎が白石家に高杉を見舞っています。戦況の話をしながらも、「あまり無理をしてはいかんぞ」と、じっとしていられない晋作を諌めたのでしょうか。10月2日に、晋作は手紙で、
「相変わらずご尽力なさっておられる由、邦家のために恐賀申し上げます。小生の病気ご懸念くだされ、ご親切のご教示くださってかたじけなく感謝申し上げます〜 参謀役はすべて前原氏に托し、いまは保養のみに日を送っております」
 と伝えて、小五郎を安心させようとしています。
 でも高杉は病床で、かつて世話になった野村望東尼が福岡藩の佐幕派に捕えられ、玄海灘の孤島・姫島に流されたことを耳にすると、居てもたってもいられなくなります。すぐに奇兵隊士らに命じて彼女を救出させ、自分の元に招きました。
 長州藩が守旧派の手におち、危険を感じた高杉が脱藩したのは元治元年(1864)のこと。同11月に望東尼が彼を山荘にかくまったのです。
 病人は恩人との再会をよろこびましたが、望東尼はやせ細って病床に臥す相手を見て、どんな思いに捉われたでしょうか。あんなに元気だった若者が… 母親のように心配したに違いありません。
 9月末に高杉は奇兵隊の招魂場に近い下関郊外の桜山に移って療養生活に入りました。

 三千世界の鳥(からす)をころし ぬしと朝寝がしてみたい

 かつては戯れにそんな都都逸を謡ったこともある男も、「東行庵」と自ら名づけたこの山中の庵で淋しく病臥する身となってしまいました。

 われもと人間 ひとに容れられず
 故人われを責むるに 詭智をもってす
 同族われを目するに 放恣をもってす
 而して君われを要るるは 果して何の意ぞ
 君去るなかれ 老梅の枝

 窓外にウグイスの啼く声を聴きながら詠んだのでしょうか。暴れ牛の異名をとり、奔放に生きてきた晋作には無縁と思われる寂寥感をこの詩は感じさせます。奔放といっても、実際の彼はかなりの詩人で、親思いであり、主君思いでもありました。

 翌慶応3年3月中旬、高杉が重態に陥ると、妻マサと長男梅之進が父親の小忠太に伴われて萩から駆けつけました。交通の便の悪さからか、病人は桜山から新地の林算九郎宅のはなれに移されます。彼は藩主から新たに石高百石を賜って谷家を創設、中組から大組にすすみました。
 4月になり、病人の死期が間近に迫ってきました。晋作はしばしば喀血し熱に浮かされながら、もはや起座もままならぬ病床でいったいなにを思い出していたのでしょう。
 
 死んで不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし。

 亡き師吉田松陰の「死生観」を反芻したでしょうか。自分はそのとおりに生き、いま死ぬにあたって悔いはないと――。

 慶応3年4月14日午前2時、高杉晋作はその短くも烈しかった生涯をついに閉じました。享年29(満27年7箇月)。
 生前のある日、晋作が「おもしろき こともなき世を おもしろく」と詠んだので、そばにいた望東尼が「住みなすものはこころなりけり」と下の句をつけると、彼は「おもしろいのう」と言って微笑んだ、という話が今に伝わっています。

 萩で政務を執っていた小五郎は、高杉の訃報をうけて深い喪失感にうたれました。覚悟していたとはいえ、共にいく度もの危機を乗りこえてきた同志です。「禁門の変」で戦死した久坂玄瑞は「江戸の藩邸で天下のことをともに論じるに足る士は晋作と小五郎のみ」と語っていたほどで、晋作も困ったときには6歳年上の小五郎を頼ることが多かったのです。「国家の一大不幸で、悲嘆に堪えない」と、小五郎は知人への手紙に書いています。
 4月16日、高杉の亡骸は奇兵隊の本拠地である下関吉田の地に葬られました。墓碑銘は「東行墓」。のちに伊藤博文が碑文を記しています。
 動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し――

 同年11月6日、晋作のあとを追うように、望東尼が三田尻で亡くなりました。享年62歳。


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