木戸孝允への旅はつづく 7


青年時代(江戸・萩)

● 小五郎、造船術を学ぶ

安政元年11月4日、東海地方に大地震が起りました。このとき下田にはロシアのフリゲート艦ディアナ号が停泊していたのですが、地震につづいて起った津波で破壊されてしまいました。艦長プチャーチンの依頼で、幕府は伊豆戸田浦に造船所をつくって、代船のスクーネル型帆船を建造することになりました。思いがけず洋式帆船の技術を習得する機会を得たわけです。ちょうど相模湾警備の任にあった小五郎はその現場を見に行きました。長州藩も海軍の整備が必要であることを痛感した彼は、自ら下田奉行の与力、中島三郎助に教えを乞うたのです。中島は蘭学者で、砲術、軍艦操縦法を修め、のちに幕府の軍艦操練教授、軍艦頭取となり、五稜郭の戦争で戦死した人です。
すでに小五郎は海軍創設の必要性を藩に訴えていました。薩摩藩は嘉永6年9月に大船建造の禁が解かれてから、島津斉彬の指図によって15隻の船の製造に着手していました。水戸藩でも「朝日丸」という大船をつくっており、また、幕府の「鳳凰丸」は中島の指導の下で建造されました。長州藩も海軍の創設を考えていたのですが、洋船の造船術を知る者が一人もいませんでした。結局、その必要性を訴えた小五郎に造船術習得の藩命が下ったのです。中島は小五郎の弟子入りの希望を快く受け容れてくれました。広さ二畳半ほどの塩物小屋に床を張って、なんとか寝泊りできるようにもしてくれました。萩からも二人の大工が派遣されて、中島の世話で浦賀の大工方に住み込み、船の内部構造を習得することになりました。幕吏が外様藩の藩士である小五郎をよく内弟子にしてくれたものです。
小五郎はさらにスクーナー船の建造についても建言し、藩に容れられて、安政3年12月には完成して進水式が行われました。これが「丙辰丸」です。小五郎は江川太郎左衛門からは兵術を、中島三郎助からは造船術を学び、一人で長州藩の陸海軍を整備する意気込みだったようです。でも太郎左衛門は安政2年1月に病没してしまいます。

小五郎が萩に帰ったのは、安政2年4月でした。2年半ぶりでしたから、しばらく江戸屋横丁の生家でゆっくり休養しました。江戸の喧騒にくらべると周囲はやはり落ち着いて静かです。義兄の文譲が亡くなったので、和田家は文譲の子卯三郎が継いでいました。妹の治子は久しぶりに兄と会ってやはり嬉しそうで、江戸のことをいろいろと聞いてきます。「できることなら私も行ってみたい」と言うので、「今、江戸は外国船が押し寄せてきて警備も大変だからね。萩がのんびりしていて一番いいよ」と兄は応じます。
「でも、またすぐに江戸にいらっしゃるのでしょう? 萩よりよほどおもしろいから、お兄さまもなかなか萩に戻ってこないのだわ。私のことなど、忘れていらっしゃるのよ」
すねたように妹は言います。
「そんなことはない。お前のことはいつも思い出しているよ。手紙だってちゃんとやってるじゃないか」
治子はやはり血の繋がった唯一の兄と離れて暮していることが寂しいようです。小五郎もそのことはよくわかっていましたから、血縁のない嫂(あによめ)と暮している妹を可哀相にも思えました。妹もそろそろ年頃ではないかな。そんなことを考えながら、小五郎は和田家の今後について、嫂と相談しなければならないと思いました。

小五郎が再び萩を発って江戸に向ったのは5月7日でしたが、萩滞在中に野山獄にいる吉田松陰に手紙を送っています(「松菊木戸公伝」では、松陰を訪ねたことになっている)。松陰は小五郎が造船術勉学の藩命を受けたことを知って、激励の一文を与えています。

 わが友桂小五郎は武人なり。武人にして書生にあらず――。

弟子というよりも一人の大人として扱っていますが、国防のことについては「書生の粗心」をもって計算を誤ることのないように、という師らしい忠告もしています。でも、松陰は一段と成長したような小五郎を頼もしく思ったようです。長州藩士のうち、西洋の軍事技術の習得に努力しているのは「独り桂小五郎のみ」だと嘆いていた松陰にとって、やはり小五郎の存在は長州藩の「希望の星」と映ったのでしょう。
松陰が赦されて野山獄を出、杉家に帰るのはこの年の12月のことですから、まだ松下村塾で教えるまでには間があります。このとき、のちに松下村塾の双璧と称された高杉晋作はまだ17歳、久坂玄瑞は16歳でした。


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