木戸孝允への旅はつづく 71


風雲篇(京都)

● 船中八策

孝明天皇の崩御
 晋作が没した前年の慶応2(1866)年12月25日、すでに孝明天皇が亡くなっていました。天皇は同月11日に御神楽をご覧になったのですが、風邪気味だったせいか翌朝には発熱し、その後、赤い斑点が全身にあらわれて、17日には痘瘡と診断されました。でも、病状は回復にむかい食欲も出てきたので、医師も一時は安心していました。
 ところが24日夜半に容態が急変し、「御九穴(*)より御脱血」(中山忠能日記)という重態に陥り、苦しみもだえた挙句、翌日には亡くなってしまいました。

 孝明天皇の急死については病死以外に、毒殺説が取りざたされ、今日でも「孝明天皇は暗殺されたのか?」と、論争になることがあります。犯人の有力候補にはいつも、岩倉具視の名が挙げられます。彼は文久2年にも、「天皇に猛毒を飲ませようと謀った」と噂され、「京都を立ち退かないと、家族もみな殺しにする」という脅迫状を私邸に投げ込まれています。ちょうど和宮降嫁の問題が起こっていたころで、その推進者とみられた岩倉に反発する勤王激派の脅しだったのかもしれません。
 過去にそうした風説があったとしても、岩倉を「天皇暗殺説の首謀者」とするには、かなり無理があります。天皇崩御の時には、彼はまだ岩倉村に閉居しており、当時書かれた手紙から推しても、孝明天皇に対する岩倉の情は誠に深かったことがわかります。

「廿五夜に入、今朝に至り、主上ご容態もっての外にあらせられ、仰天驚愕、実に言う所を知らず。天皇国を亡んとするや、臣進退ここに極り、血泣鳴号(*)無量の極に至れり。臣一身において、吾事終れり〜」(坂木静衛宛)

 ひたすら朝権の回復をめざしていた岩倉にとって、天皇の死は自ら依って立つ処を失うことに等しく、『絶望』を意味していたと思われます。吾が事終れり、と気がなえ、一時は遁世を決意したほどだったのです。

 孝明天皇が発病した原因については、中山忠能日記に、
「藤谷?丸(註:天皇に仕えていた子)という少年が疱瘡にかかって75日ほどしてから御所に帰ってきたところ、顔面にあばたが多く残っていた。お上は甚だ気味悪く思し召したが、なぜか退出も仰せつけられなかった。ご堪忍の子細は分らないが、ついに大事に及んでしまった」
 とあり、この少年から疱瘡が天皇に移ったことを疑っています。同様の話が他の記録にもみられるので、やはり病死とみるのが妥当なようです。
 翌年1月9日に、わずか(満)15歳の明治天皇(孝明天皇の第二皇子、母は中山忠能の娘、慶子)が践祚(せんそ)されました。

 * 九穴 - 人間などの体にある九つの穴。口、両眼、両耳、両鼻腔、肛門、尿道をいう。
   鳴号 - 泣き叫ぶこと。号泣。


船中八策
 その後、薩摩の大久保や西郷の働きかけによって、5月には四侯会議がひらかれ、兵庫開港と長州処分案について話し合われました。松平慶永(福井)、山内豊信(土佐)、伊達宗城(宇和島)、島津久光(薩摩)の四侯は14日に二条城で慶喜と対面し、長州の寛大な処分をさきに行い、兵庫開港はあとにするように求めました。しかし、慶喜は彼らの思いどおりになるような人物ではありません。彼は朝廷に働きかけて、24日には強引に兵庫開港の勅許をとりつけてしまいます。
 こうなると外交は慶喜の意のままになり、政治の主導権を徳川幕府から諸侯会議に移すことも難しくなってきました。衰えたとはいえ「腐っても鯛」で、徳川260年の政治体制を崩すのは容易なことではありません。もはや京都にとどまっていても無駄と思ったのでしょうか。いまだに態度が必ずしも鮮明でない土佐侯が、27日には早々と帰国してしまいました。

 この前後から土佐藩士の動きが活発になっていましたが、6月になって、坂本龍馬が後藤象二郎とともに長崎から入京しました。彼は、長崎で土佐の参政・後藤と会って、今後の藩の方針について話し合ったのです。幕長戦の結果をみて、同藩の指導層が薩長寄りに舵を切りはじめたことがわかります。後藤は薩長両藩に人脈を築いている坂本を利用したかったのでしょう。4月には脱藩の罪を赦され、同時に海援隊が組織され、坂本が指揮を任されています。
 船中、坂本が後藤に示した新しい国家体制案が、いわゆる「船中八策」です。すなわち、

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべきこと。
一、上下議政所を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべきこと。
一、有材の公卿、諸侯、及び天下の人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべきこと。
一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべきこと。
一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を選定すべきこと。
一、海軍宜しく拡張すべきこと。
一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべきこと。
一、金銀物資宜しく外国と平均の法を設くべきこと。

 この案の基となるのが、文久2年に松平春嶽の政治顧問であった横井小楠が幕府に提出した「国是七条」です(これについては別ページの「船中八策と横井小楠」をご参照ください)。 坂本が後藤に提示した「船中八策」をもとに、土佐藩が「大政奉還」の建白書を作成して、将軍慶喜に伝えるのは10月3日ですが、その間にも様々な動きがあり、幕府側、土佐藩、薩長間には、同床異夢ともいえる三者三様の思惑が交錯していたのです。


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