木戸孝允への旅はつづく 72


風雲篇(京都)

● 大政奉還をめぐる動き

 元来、土佐藩は関ケ原合戦以来の経緯もあって、外様藩ながら親幕色が強く、薩長の倒幕的な動きに対しては、容堂も警戒心を抱いていました。もはや幕藩体制が立ち行かない状況にきていることは感じていながら、なんとか幕府との戦いを避けたいという思いが強かったのです。長州再征に失敗したとはいえ、兵制改革を推し進める慶喜が掌握する幕府の軍事力は侮れません。後藤象二郎はそんな主君の胸中を察して、大政奉還の案を薩摩藩に持ち込みました。もはや幕府に味方もできないが、薩長主導で事が運ぶことも阻止したい。できれば土佐藩の案によって両者を納得させ、主導権を握りたい、という思惑があったのでしょう。

 この薩土の会談は薩摩からは小松、西郷、大久保が、土佐からは後藤など3名が出席し、坂本と中岡が立ち会っています。ここに薩土盟約なる両藩の合意がなったのです。すなわち、

一、 国体を協正し、万世万国に亘(わた)りて恥ず
一、 王政復古は論なし。宜しく宇内形勢を察し、参酌協正すべし。
一、 国に二帝なし。家に二主なし。政刑ただ一君に帰すべし。
一、 将軍職に居りて、政柄を執る、これ天地間あるべからざるの理なり。宜しく侯列に帰し、翼戴を主とすべし。

 まさしく大政奉還で両藩の意見が一致したと思えます。ところが、これより少し前の5月26日、中岡の仲介で、土佐の乾(板垣)退助、谷干城ら武断派と薩摩の西郷、小松らの間で武力討幕を主眼とする薩土密約が結ばれていました。それならば、この一見矛盾した薩土盟約はどうして成立したのでしょう。慶喜がすすんで政権を朝廷に返上し王政復古を認めれば、討幕の理由はなくなってしまいます。

 薩摩がわの思惑について、佐々木高之が日記に記しています。要約すると、「薩藩は建白の旨、まったく同意すると言っているが、これは薩の智略だ。これまでわが藩のことには疑念を抱いており、このたびの事はわが藩を主と成して一本打たせ、後に大事を成そうというのだ。そのときにわが藩に十分の荷を負わせるつもりなのだろう」

 最初は土佐の意見を容れて花をもたせるが、後には薩摩が表舞台におどり出て大立ちまわりを演じる、と佐々木は推察しています。また、討幕の準備が整うまでの時間かせぎ、土佐を幕府方につけないための戦術との説も、もっともらしく思われます。しかし、長州藩、とくに小五郎は、こうした薩摩や土佐の動きに神経を尖らせていました。「八・一八政変」以来、長州藩は「禁門の変」、外国艦隊との交戦、さらに藩内抗争、2度にわたる長幕戦などで大勢の戦死者や粛清の犠牲者を出して、さんざんな目にあっています。二度と裏切られるのはごめんだ、という思いは強かったでしょう。

 小五郎はそうした疑心や不安を坂本龍馬にぶつけています。坂本は薩土盟約につづいて、長州と土佐の提携をも画策して、海援隊士石田英吉を介して小五郎に、長州藩から使者を土佐藩に派遣するように要請しました。小五郎はそれに応えて使者を派遣し、同人は7月10日に容堂公と面会しましたが、印象は「侯の答弁、円滑模糊。終に要領を得ず」と、それほど良いものではなかったようです。というのも、容堂はすでに大政奉還の話を後藤から聞いていたので、討幕一辺倒の長州藩に同調することはできなかったのです。

 のちに小五郎は英国人通訳官・アーネスト・サトウから聞いた「老婆の理屈」という言葉を用いて、坂本に伝えています。つまり、これが天下の正論であるから、やろう、やろうと言って、なかなかやらないで平気でいることを「老婆の理屈」だと比喩して不満を漏らしたのです。また、土佐藩は「はじめは脱兎の如く、終りは処女の如き」とか、「乾頭取の役前、この末はもっとも肝要と存じます」と、手紙でも告げています。小五郎は、今こそ大事を成すとき。時間の遅れは幕府を利するだけ、という確信を抱いていました。

 坂本は小五郎に疑惑をもたれていることに、かなり慌てたようです。土佐藩の保守性には負い目を感じており、小五郎の疑惑をなんとか払拭したいと思い、佐々木にも「木戸の言うことはもっともだから、いっそうご尽力を願いたい」と彼の手紙を添えて頼んでいます。坂本は本気で武力討幕について考えはじめ、大政奉還の建白が通らなかったら、「耶蘇教で人心を煽動して、その混乱に乗じて幕府を倒す」ことまで口にしています。

 耶蘇教はともかく、具体的に実現したのは大量の洋式銃の購入でした。オランダのハットマン商社からミニエー銃1300挺を購入し、うち1000挺を長崎から船で土佐藩に送り、自身は「火中に投じてほしい」と言われた木戸の手紙(9月4日付)をしっかり懐中にして、土佐に帰ってきたのです(下関滞在中の妻お龍とは、出航の9月22日が最後の別れとなる)。銃を購入したといっても、薩摩の商人から独断で借りた5000両を頭金として支払っただけでした。彼は長州の伊藤からも、
「もしも土佐藩が因循で、その銃をいらないといったら、長州藩がひきとってもよいですよ」
 と皮肉っぽく言われており、なんとしても土佐藩を説得して、銃の購入を承知させなければならないと思っていました。彼も必死であり、木戸の手紙の効果を期待していたのです。

 その効果はてきめんでした。坂本は木戸の手紙を届けたうえで、土佐藩の要路二人と密会し、事態が切迫していることを告げました。彼は伊藤から、同時期に薩摩の大久保が大山格之助を伴って山口を来訪し、藩公父子と対面したことも聞かされていました。挙兵計画が着々と進んでいることを、身をもって感じていたのです。土佐藩は7月に「イカルス号事件」(*) に巻き込まれて、その対応に追われ、大政奉還への動きが停滞していました。薩摩藩はその遅れに苛立っており、武力討幕を実行に移す準備をすすめることになったのでしょう。

 木戸の手紙はまぎれもない両藩の本気を証明するものでした。ことここに至っては、薩長と行動をともにしなければ、時勢の波に乗り遅れると焦ったのか、土佐藩の重役らは両藩との協力に尽力することを約束しました。ミニエー銃も土佐藩で購入し、代金を払うことに決しました。坂本はさぞかしほっとしたことでしょう。

 ところが、ちょうど同じころ、京都では後藤が大政奉還論を実現させようと、熱心に活動していました。彼は大阪に滞在中の西郷を訪ねたのですが、西郷のほうはもはや土佐藩に失望していました。後藤はいく分かの兵力を率いて上京するという話でしたが、建白書以外はなにも携えておらず、西郷の期待を裏切ってしまったのです。藩主容堂があくまでも非戦解決を望み、一兵たりとも出兵を許さなかったためでした。四侯会議も失敗に終り、武力を背景としない談判は不利と確信していたのか、西郷はにがりきっていました。
 土州頼むにたらず。
 と彼は見切りをつけ、大久保を山口に派遣して武力討幕の準備をすすめたのでした。土佐藩では乾退助などは出兵を強く主張しており、土佐藩内は大政奉還派と武力倒幕派に二分され、二派の動きが同時進行しているような状況でした。坂本もまた、いずれにも対応できるように、抜かりなく準備をしていたのでしょう。

 後藤は薩摩藩から建白書の提出について同意をとりつけた後、10月3日、ようやく幕府の老中板倉勝静に提出しました。松平容堂の名義で、別紙(後藤、福岡ら四人が署名)が添えられていますが、長いので容堂公による最後の数行を抜粋しますと、

 ただ幾重にも公明正大の道理に帰し、天下万民と共に、皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万国に接し、王政復古の業を建てざるべからざるの一大機会と存じ奉り候 〜

 この歴史的な建白書が表舞台で幕府がわに公にされていたころ、裏舞台では、大久保と岩倉具視のあいだで討幕の密勅奏請についての密談が交わされていました。

 *「イカルス号事件」 − イギリス船イカルス号の水夫二人が7月6日の夜、何者かに殺害された。そのころ、海援隊の帆船と土佐藩の砲艦が出入港していたことから、犯人の嫌疑が海援隊と土佐藩にかかり、英公使パークスが強硬に抗議した事件(維新後に、福岡藩士だったことが判明)。


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