木戸孝允への旅はつづく 73


風雲篇(京都)

● 慶喜、大政を奉還する

 慶応3年10月3日に土佐藩から建白書が提出されてから、事態は予想以上のはやさで進展していきました。慶喜は10日も経ずして土佐藩の大政返上の建白書を受け入れたのです。予め板倉勝静(老中)と永井尚志(若年寄)にはその意志を伝えており、二人とも「今は余儀なき次第」と賛成していました。たとえ政権を朝廷に返上しても、徳川氏260余年の権力は、新体制の下でもある程度保持しえると信じたからです。それは慶喜とて同じ思いでした。
 王政が復活しても、堂上・公卿たちに統治能力はないとみこしていました。幕府、朝廷ともに有能な人材は下層にあって、もはやそうした者たちの意見を無視できないことは、慶喜自身も認識していました。それでは、どういう体制を敷けばよいのか? 土佐藩の建白書はその現実的な答を提示してくれました。
 上院(列侯会議)と下院(諸藩士の代表会議)を設けて、諸事公論によって決すること。すなわち、元々土佐藩が主張してきた公武合体策であり、徳川家の存続を可能にする制度でした。幕閣は薩摩藩の挙兵計画について、後藤象二郎から知らされており、同盟相手の長州兵はすでに三田尻に集結していました。薩長による攻撃を阻止するためには一刻の猶予もなかったのです。
 こうした水面下で徳川幕府、土佐藩、薩長のあいだで王政復古後を見据えた熾烈な主導権争いが繰り広げられていたなか、13日には二条城に在京の諸藩代表が招集され、大政奉還の布告がなされました。その後、小松帯刀(薩摩藩)、後藤象二郎、福岡孝弟(土佐藩)、辻将曹(芸州藩)があとに残り、小松が将軍徳川慶喜の前で意見を述べました。
――将軍職を返上しても、朝廷には天下の政を行なう準備がないので、外国の事と国家の大事のみを委ねて、他のことはこれまでどおり幕府がとりしきるほうがよろしいでしょう。

 それより少し前、岩倉具視は中山忠能に会って、討幕の密勅について依頼していました。毛利父子の官位復旧の宣旨は13日の朝に出されましたが、中山邸を新選組が見張っていたので、子息具定に元服前の少年を同伴させて中山邸に派遣しました。宣旨は少年の下着の背中に隠し、新選組隊士たちも油断したのか、二人は怪しまれずに無事通り抜けることができました。
 14日の朝には、正親町三条実愛の邸で大久保が討幕の密勅を受け取ります。この周辺でも近藤勇を含む新選組隊士の姿がちらほら見られました。どこからか薩摩の不穏な動きに関する情報を入手していたのかもしれませんが、薩摩藩士には手を出さないことがわかっていたので、大久保は平然と正親町邸を出て岩倉の元に向かいました。

 土佐の坂本龍馬が京都に入ったのは10月9日のことでした。翌10日には福岡の紹介で幕閣の永井尚志と面会しています。坂本も側面から後藤を援けて、大政返上について永井を説得したと思われます。その努力が実をむすび、慶喜の大政奉還が朝廷によって受け入れられたあと、坂本は三条家の近習、戸田雅楽(のち尾崎三良)とともに新政府の官制案を作成しました。戸田のメモによると、以下のようになっています。
関白  三条実美
内大臣 徳川慶喜
議奏  島津、毛利、山内など諸侯と岩倉、東久世、中山など諸卿
参議  小松、西郷、大久保、木戸、後藤、由利、横井、福岡、坂本など

  坂本は24日には京都を発って越前福井に向かいました。彼の福井来訪の目的は、松平春嶽に上京を促すというほかに、当時謹慎中だった三岡八郎(のち由利公正)に面会することでした。三岡とはすでに面識があり、坂本はその財政家としての手腕を高く評価していました。会談中に三岡が「戦争の備えはあるのか」とたずねると、坂本は「不戦なり」と答えています。
「だが、幕府から仕掛けてきたらどうするのか?」
 三岡が再び問うと、彼は「新政府には金もなく、信任の兵士もいない。あなたにその対策を聞きたい」と三岡に問い返しました。三岡は「天皇が天下に君臨し、乱を治め、治を図り、暴に換わるに仁をもってすれば、信義は天下に明らかである。どうして金が不足することがあろうか。金札(紙幣)を発行すればよいのだ」と答え、紙幣を発行する方法を説明しました。
 このような二人の議論は朝から夜半過ぎにまで及びました。三岡から新しい知識を得た坂本は、帰京後に船中八策を基にした「新政府綱領」を起草しています。その最後に、

――諸侯会盟の日を待て云々。○○○自ら盟主となり、これを以て朝廷に奉り、始て天下万民に公布云々。強抗非礼、公議に違ふ者は、断然征討す。権門、貴族も貸借することなし。

 とあります。○○○とは山内容堂、あるいは徳川慶喜を指すものと推測されています。諸国の大名が一堂に会して天皇の前で協力を誓約するということで、平和裏の政治改革を目指すものと言えましょうか。だが坂本は、武力討幕を主張する中岡慎太郎には「こちらから挑戦しなくとも、必ず幕府側から激してくるに違いない。それまで冷静に待つべきである。後藤らが公議を云々しても、最後はけっして平和に終らないだろう」
 と述べたともいいます。血気にはやる陸援隊を宥める方便だったのでしょうか。
 いずれにしても、この時期の坂本は精力的に活動しており、土佐藩が新政府の主導権を握るかのようにも思われます。だが、薩長の勢力を利用して慶喜に大政奉還をなさしめ、大政奉還がなれば、今度は徳川家の存続に尽力するかにみえる坂本の行動は、幕府側、倒幕側の双方にある種の疑念を引き起こしてしまったようです。
 
 福井から帰京した11月5日以降、坂本は河原町にある近江屋(主人は井口新助)を宿としていました。近江屋の裏手には誓願寺などの寺が軒を連ねており、主人の新助は坂本を裏庭の土蔵の中にかくまいました。以前に幕府の捕り方に襲われたことがあったので、万一の際には寺の境内に逃れられるように、塀に梯子をかけておいたのです。
 しかし彼はじっとしていられない性分だったので、平気で出歩き、同志に逢いに行ったりもして、家人に注意されていました。そのうち風邪を引いてしまい、11月14日の朝には寒い土蔵を嫌って母屋の二階に移っていきました。
 翌日の午後6時ごろ、陸援隊長の中岡が坂本を訪ねてきました。現在も語り継がれる幕末史の悲劇はその後に起こりました。


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