木戸孝允への旅はつづく 74


風雲篇(京都)

● 坂本、中岡、暗殺の日

 慶応3年11月15日、その夜の坂本は寒気のためか、真わたの胴着に舶来絹の綿入れをかさね、さらに黒羽二重の羽織をはおっていました。坂本が中岡をむかえ入れたのは二階奥の八畳間でした。二階には八畳二間と六畳二間の4部屋あり、階段近くの八畳間には下僕の藤吉(元力士、雲井龍)があぐらをかいて、楊枝を削っていました。二人の友は火鉢をはさんで対座し、坂本は床を背にしており、傍には行燈が置かれていました。

(河原町通)


 近
 江
 屋
 二
 階

.(北)
    八畳間

     藤吉


階|  六畳間
段|
板間

押|  六畳間
入|
仏壇

押|  八畳間 屏風
入|
床|坂本 火鉢 中岡
  |  行燈
(物干し)

 二人が談話中に峰吉(書店・菊屋の息子で土佐藩士に可愛がられていた)が中岡の使いを済ませてやってき、同じころ岡本健三郎(土佐藩士)も訪れました。のちの峰吉の話によると、近江屋の二階の見取図は右のとおりになっています。
 しばらく閑談後に坂本が、「腹が減った。峰、軍鶏(しゃも)を買ってこい」と言い、中岡も「俺も減った。おまえも食っていかぬか」と岡本に訊ねました。でも、岡本は、「ちょっと出かけるところがあるから」と言って断り、峰吉といっしょに部屋を出て行きました。
 まもなくして、階下で案内を請う者があり、藤吉が階段を降りて客に応対しました。客は一人の武士で、懐中から名刺を取り出して言います。
「拙者は十津川郷の者だが、坂本先生ご在宿ならば御意を得たい」
 十津川の郷士なら、坂本らがあい知る同志もいたので、藤吉はなにも怪しむことなく、受け取った名刺をもって階段を上がっていきました。そのとき、家の中に入った刺客は3人。彼らは藤吉のあとを追い、一人が先に進んで、階段の降り口あたりで名刺をわたして出てきた藤吉を斬り倒しました(名刺をわたす前という説もある)。どさっと何かが倒れる物音を聞いて、坂本は「ほたえな」(騒ぐな)と叫びます。若者が店先でふざけていると思ったようです。あとの二人の刺客が奥の間に走り込み、一人が「こなくそ」と叫びながら、中岡の後頭部を斬りつけ、もう一人が坂本の前頭部を横に斬り払いました。
 突然のことで、よける間もなかった坂本は、身をひねって床の間に置いていた愛刀(吉行)を取ろうとしましたが、背後から袈裟懸けに斬られ、さらに三の太刀が襲うのを辛うじて鞘で受け止めました。近江屋の屋根は片流れになっていたので、坂本の太刀(2尺2寸)の鞘こじりが天井を突き破り、刺客の刀は鞘を削りながら流れて、再び坂本の前額部を薙いだのです。すでに傷口からは白い脳漿が流れ出しており、「石川(中岡の変名)、刀はないか。刀はないか」と叫ぶと、坂本はそのまま昏倒してしまいました。
 中岡も屏風の前に置いていた刀をとるひまはありませんでした。短刀を抜くこともできず、鞘のまま応戦していましたが、初太刀の深手で思うように動けず、容赦ない凶刃に全身11箇所を斬られて右手首はわずかに皮一枚でつながっているほどでした。うつ伏せに倒れて動かなくなったのを見ると、刺客は「もうよい、もうよい」と言って、ようやく立ち去りました。
 その後、坂本は意識をとりもどし、刀を抜いて行燈の光に刃をかざすと、
「残念だ、残念だ」と呟きました。
「慎太、手が利くか?」
 坂本がたずねると、中岡は
「手は利く」と答えました。
 しかし、坂本は自分で六畳間のほうに這っていき、欄干のそばで、
「新助、医者を呼べ」
 と階下に声をかけましたが返事はありません。新助はすでに妻子に布団を頭からかぶせて、声を立てないように言い置くと、裏手から抜け出して土佐藩邸に急を告げに行っていたのです。
「俺は脳をやられたから、もうだめだ」
 坂本はかすかな声でそう中岡に告げると、畳に倒れ伏し、再び声を発することなく絶命しました。享年33。
 中岡は激痛に耐えながら裏の物干しの上に出て、家人を呼びました。しかし応える声もなかったので、屋根づたいに隣の道具商・井筒屋の屋根まで進んで助けを求めようとしました。

 新助の急報によって、最初に土佐藩邸から近江屋に駆けつけたのは邸吏の島田庄作でした。彼は刺客がまだ二階にいるものと思って、抜刀したまま入口近くの壁に張りついていました。そのうち峰吉が軍鶏を買って還ってくると、
「峰吉か、静かにせい。坂本がやられたのだ。賊はまだ二階にいる」
 島田に言われて、峰吉は、
「冗談でしょう。中岡さんも来ておられる。私はいま頼まれて軍鶏を買って還ってきたところです」
 と言うか言い終わらないうちに、階上からうめき声が聞えてきました。峰吉が忍び足で階段を上がっていくと、生臭い匂いが鼻をつき、かかとには血糊がついているのに気がつきました。見ると、藤吉が六畳の欄干のそばでうつ伏せに倒れているではありませんか。さらに次の間には坂本が血まみれになって倒れており、峰吉はおもわずその場に座り込みました。
 だが、すぐに我にかえって、中岡の姿が見えないことに気づき、無事に逃げたのだろうか、と案じていると、屋外から人の呻き声が聞えてきました。隣家「井筒屋」の屋根の上に中岡が横たわっているのをみて、慌てて、
「刺客はいない。上がってきてください」
 と階下に声をかけました。やがて島田を先頭に、近江屋の新助、その弟、妹などの家族が上がってきました。一同が力を合わせて中岡を八畳間に運び入れると、本人の意識はしっかりしていて、
「刺客はまだ家の中に潜んでいる。油断するな」
 と言うので、
「いや、もう去ったから、安心してください」
 と救援者が答えると、中岡は、そうか、とうなずいてほっと息を継ぎました。峰吉はすぐに裸馬に乗って白川の陸援隊本部に知らせに行きました。

 坂本の下僕・藤吉は手当の甲斐もなく翌16日の夕方に亡くなりました。一方、中岡のほうは、駆けつけた陸援隊副隊長・田中顕助(光顕)が、
「長州の井上聞太はあれほど斬られてもまだ生きている。気をたしかに持ってください」
 と励ましましたが、本人はもはや死の間近いことを覚悟していたようです。
「坂本や自分までがやられたのだから、よほどの武辺者とみえる。幕士は腰抜けと侮っていたが、このような壮士もいるのだ。諸君も油断するな」と言い、「岩倉卿に告げてほしい。王政復古の業は一に卿の力に頼む、と」
あるいは、「はやく討幕の挙を起さねば、逆にやられるぞ」
 気丈に檄をとばしていましたが、17日には眼に見えて衰弱していき、夕刻、中岡慎太郎はついに坂本のあとを追って、息を引きとりました。享年30。新時代の幕開けはすぐそこまできていましたが、二人の志士は不運にもそれを見ることなく、あっという間に燃え盛る命を散らしてしまったのです。


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