木戸孝允への旅はつづく 75


風雲篇(京都)

● 薩長軍の動静

 坂本・中岡暗殺の犯人はだれだったのか? 
海援・陸援隊員は最初、現場に遺されていた下駄と刀の鞘から、新選組の仕業と信じたようです。「こなくそ」という言葉が四国弁であったことから、伊予・松山出身の原田佐之助の名前が取りざたされました。
 また、新選組を教唆した者は紀州藩であるとの憶測もされましたが、これは紀州藩の蒸気船と海援隊の「いろは丸」が瀬戸内海で衝突して、結果的に紀州藩が海援隊に多額の賠償金を支払ったことがあったからです。実際、海援隊員らは復讐心をつのらせ、紀州藩士で佐幕派の三浦休太郎を標的に、その居場所を襲撃しています(三浦が抵抗したので、目的は達せられなかった)。
 ところが明治3年になって、函館戦争に敗れて降伏した今井信雄が取調べ中に、近江屋で坂本、中岡を襲ったのは見廻組の組頭・佐々木只三郎と今井を含む配下の7人であったことを供述したのです。そのうちの誰が坂本を斬ったのかについては、はっきりわかっていません。自分は見張り役だったという今井自身が実は坂本を斬った、あるいは一味のうちの渡辺某か、桂早之助だという説もありますが、確証はありません。
 暗殺の指令を与えたのは、幕閣の某大物、京都守護職・松平容保などの名が挙げられていますが、これも定かではありません。武力倒幕のじゃまになったという理由で「西郷黒幕説」なども折々に取りざたされますが、興味本位の一説にすぎず、動機も薄弱で信憑性はありません。慶応3年11月19日に大久保が岩倉宛に送った手紙には、「坂本、中岡暴殺のことは新選組の仕業に違いないと聞いております。最近は益々乱暴を働いているようで、近藤勇が一番あやしいと察せられます。まったく自滅に向かう兆候でしょうか」と書かれ、刺客は新選組との疑いを強くもっていたことがわかります。

 武力倒幕の姿勢をくずさなかった中岡には、生きていればその後もやるべき仕事があったでしょう。しかし、坂本は慶喜側近の永井尚志(なおむね)とは「完全に意見が合っている」(原文「〜今朝永井玄蕃方に参り色々談じ候ところ、天下の事は危しとも、お気の毒とも言葉に尽し申されず候〜 追白、彼玄蕃ことはヒタ同心にて候」)と知人宛の手紙に書いており、もはや幕府に対抗する意志は失っていたようです。薩長の連合軍はすでに討幕にむけて動き出しており、坂本の調停者としての役割もすでに終っていたとみるべきでしょう。だとすれば、これ以後、彼の立場は相当苦しくなっただろうと察せられます。まさに歴史的使命を果した男に、天が与えた寿命だったのかもしれません。

 このころ、民衆の間では、開港や征長戦による物価の高騰に端を発した「世直し一揆」がひんぱんに起こっていました。この一揆は幕末の世情不安に宗教的行事が結びついて、踊り狂いながら市中をねり歩く大規模な集団行動へと発展していきました。異装をこらした人々、男は女装、女は男装して、笛、太鼓、三味線などを打ち鳴らし、手足を振り上げて乱舞しながら「ええじゃないか、ええじゃないか」のはやしをつけて何日も踊り狂うという、幕府もお手上げの騒然とした現象が生じていました。生活に困窮した民衆のかたちを変えた幕府批判、混乱した政情への不安と来るべき新時代への期待感が入り混じっていたのでしょうか。こうした民衆運動は倒幕派の追い風にもなっていたのです。

 坂本らの葬儀が行なわれた11月18日、三田尻では薩摩藩主・島津忠義と長州藩の世子・毛利広封との対面がなり、西郷や小五郎などをまじえて作戦会議が開かれました。その大要はまず、長州勢は西宮まで上って、そこで待機すること。薩摩勢は12月28日を期して京都で挙兵し、その機に乗じて長州勢は入京すること。そのあと、両公(毛利父子)が上京し、五卿も準備整いしだい帰洛すること。その際、芸州(広島)も行動を共にする約定書が交わされています。その後、島津は11月23日に入京し、西郷も随行しました。

 慶喜の政権返上に伴い、新政体を決定するという名目で諸侯には上京の朝命が発せられていました。しかし、ほとんどの藩は様子見を決め込んだのか、あれこれと理由をつけて上京してきませんでした。15日に入京した薩摩の大久保と緊密に連携していた岩倉具視は諸侯会議の中止と王政復古の号令渙発を中山忠能と正親町三条実愛に説いていましたが、幕府首脳部も大名たちの招集には乗り気ではありませんでした。幕府側は政治改革がなされるにしても、徳川家を中心に置くことを当然考えていましたし、岩倉らの反幕側は幕府も平安朝以来の摂関制度も廃止して、天皇親政の新制度を企図していましたから、今後における国政の主導権をめぐる駆引きが水面下でも烈しくなっていました。

 王政復古の号令に関する反幕側の計画は後藤象二郎をとおして土佐藩にも知らされました。後藤は表面上は計画を打ち明けた大久保に同意しましたが、土佐藩の山内容堂公はもともと根強い公武合体派ですから、内心では困惑したことでしょう。この情報は越前・福井藩の松平春嶽にも伝えられ、徳川家への影響を憂慮した春嶽は中根雪江を使者として、ひそかに慶喜に知らせました。
 慶喜は大変驚いたようですが、政権を返上した以上、王政復古の御沙汰は致し方ないと考えたのか、あるいは余計な騒動を怖れたのか、この情報を守護職・松平容保にも、所司代・松平定敬にも漏らしませんでした。

 こうしたなか、山口で指揮を取っていた小五郎は、この期におよんで芸州藩の動きが鈍いことに焦燥を覚えていました。また、薩摩藩に対しても、薩長連合を結んでから今まで計画の遅々として進まない状況に不満を抱いていました。もっとも薩摩藩も討幕一辺倒で藩論が固まっていたわけではなく、藩主の率兵上京に反対する者たちもいて、西郷などが相当説得に尽力したようです。朝廷内もどちらに味方してよいのやら、公卿たちが右往左往しており、大久保、岩倉が必死の工作を続けている状況でした。
 小五郎はまた、天皇を幕府側に奪われることを非常に怖れていました。そうなれば「八・一八政変」(文久3年)の二の舞となり、「三藩(薩長芸)は滅亡するしかなく、皇国は徳川方の意のままになって、取り返しのつかないことになる。西郷、大久保ら先生方は一歩一厘も御抜かりなきように」という趣意の手紙を在京の品川弥次郎に送っています。

 12月8日、岩倉は五藩(薩摩、土佐、尾張、越前、安芸)の重臣を本邸に呼んで、明9日卯刻(午前6時)を期して主人の参内と禁裏守衛の命を伝達しました。中山、正親町などの公卿は長防処分の朝議に出席するため参朝していたので、岩倉が代わりを務めたのです。彼は、兵の招集は、非常の備え、不時の変に応ずるためで、干戈を動かすためではない、と説明しました。

 同日、大山弥助からの進撃要請によって、長州藩の前衛約750人が京都に向かって西宮を出発しました。朝議では、長州藩父子と五卿の赦免などが決まりましたが、会議が延びて公卿たちが退出したのが翌朝の8時を過ぎていました。その前に尾張藩兵が午前3時ごろから御所内に入り込んでしまったのです。薩摩藩の不穏な動きについては前夜から噂が流れていました。公卿たちが何事か、と騒ぎ出したので、機事(クーデタ計画)が発覚したと思った正親町三条は大急ぎで手紙を書いて岩倉に報じました。
 岩倉邸内には勤王派の志士たちが集まっており、会津、桑名の兵がかならず襲ってくるとみて、死を覚悟して応戦の準備に入ろうとしました。岩倉の豪胆さが発揮されたのはこのときで、彼は志士たちを集めて酒をふるまいながら、
「尾張が期をあやまり兵を出すといえども、事の成敗は未だ知るべからず。〜 たとえ、事成らずして死するも天下後世に羞づることあらんや」
 と言って杯を擲つと、そのまま高いびきをかいて寝てしまいました。その後、尾張藩から使者が来て、「浮浪の徒が老公慶勝を襲撃するとの噂が流れたために、藩の若い者が防衛しようとして駆けつけたまでで他意はない、と偽りの弁明をして納得させたので、騒ぎは鎮まった」と説明し、軽率な行動を謝しました。

「はかりごと尽き、智窮まるときは寝るほかはない。すなわち、心気晴朗としてまた好思慮を生ずるものなり」

 のちに「大事の敗れんとするときに、なぜ寝たのか?」と問われて、岩倉はそう嗤って答えたそうです。 12月9日、勅使が岩倉邸を訪れ、彼の蟄居が免ぜられ、参朝の命が下されました。岩倉村への隠棲から5年余の歳月を経て、岩倉具視は歴史的大転換の日に朝廷に戻ることになったのです。


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