木戸孝允への旅はつづく 76


風雲篇(京都)

● 王政復古と小御所会議

 慶応3年(1868)12月9日、幕藩体制の終焉をむかえるその日の京都は曇天で、ときおり雪が舞っていました。岩倉具視が衣冠束帯の正装で参朝したころ、西郷隆盛は諸隊を率いて建礼門、建春門など御所内外の守備を固め、越前、土佐、尾張、安芸四藩の兵も相前後して御所の警備につきました。桑名・会津藩兵は公卿門、唐門、蛤門の守備から外され、憤慨しながらも二条城に引き上げていきました。
 若い天皇は学問所に出御され、招命にしたがって参朝した公卿諸侯に対して「国家のために尽力せよ」と勅諭され、その後「王政復古の大号令」が発せられました。要約すると、
 徳川内府の大政返上、将軍職辞退を受けて、癸丑以来の未曾有の国難に対処するため、王政復古、国威挽回の基として摂関・幕府などを廃絶のうえ、仮に総裁、議定、参与の三職を置いて万機(天下の政治)を行なわせ、諸事神武創業の始めに基づき、上下身分の別なく至当の公議を尽くし、尽忠報国の誠をもって奉公いたすべきこと。

 この日をもって摂政、関白、議奏、伝奏、守護職、所司代などはすべて廃止され、新しく三職が次のように任命されました。

総裁 有栖川樽仁親王
議定 仁和寺宮、山階宮、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之
  徳川慶勝、松平慶永(春嶽)、浅野茂勲、山内容堂、島津忠義
参与 大原重徳、万里公路博房、長谷信篤、岩倉具視、橋本実梁、
  尾張、越前、安芸、土佐、薩摩各藩3名

 「御公家様(天皇)の顔は、はじめて対面せり」と松平春嶽が回想しており、諸侯の拝謁はこの日が最初であったようです。その夜、三職初の会議が宮中の小御所で開かれました。土佐の容堂公は後藤象二郎からこれまでの委細を聞いて、たいへん憤激していました。島津は名を王政復古にかり、兵力をもって四方に号令する企みか、と不満を胸にいっぱいためて会議に出席したのです。各藩からは大久保一蔵、岩下佐次衛門(薩摩)、後藤象二郎、福岡孝弟(土佐)、中根雪江、酒井十之丞(越前)、辻将曹、久保田平司(安芸)、田宮如雲、丹羽淳太郎(尾張)などの家臣が陪席しました。
 会議が始まると、容堂公が、
「このたびの挙、すこぶる陰険である。大政奉還の大英断をなさった内府公(徳川慶喜)がこの席に招かれないのはおかしいではないか。このような暴挙を企てた三、四卿はなんの定見あって幼沖(ようちゅう)の天子を擁し、権柄を窃取せられたのか」
 と声を高くして批判しました。これに対して岩倉が、
「お控えなされ。聖上は不世出の英材をもって大政維新の洪業をお建てなされた。今日の挙はすべて宸断(しんだん)に出ている。幼沖の天子を擁しとは、なんたる妄言ぞ」
 天皇を幼いとの言は誠に非礼である、という批判には、さすがの容堂も詫びるほかありませんでした。しかし、その後は薩摩・岩倉派と土佐・越前などの公武合体派に分かれて会議が紛糾し、両者対立したまま深夜になっても結論が出ませんでした。薩摩の大久保は「徳川公が官位と土地人民を返上することが先であり、もしこれを拒否するならば朝敵とみなして討伐するほかない」と岩倉と同様の主張をして譲らず、一方、土佐の後藤は越前、土佐両公の意見に賛同して、新制度に慶喜をも加えるべき、との論を繰り広げました。

 土佐藩の主張には尾張、安芸両藩も同調したので、薩摩は孤立したようにもみえましたが、大久保、岩倉がそこで譲歩するはずもなく、両者は平行線のままいったん休憩に入りました。その間、岩倉は、容堂があくまで自説に固執するなら非常手段を用いるほかないと覚悟し、まず安芸の浅野を呼んで土佐藩を説得するように頼みました。
 浅野は岩倉の決意の固さをみてとり、家臣の辻に後藤の説得を命じたのですが、そのころ後藤は重臣たちの休憩所で大久保を説いて、容堂の意見に従わせようとしていました。しかし大久保はがんとして聞こうとしません。その後、後藤は辻からも岩倉の不動の決意を聞かされて、ついに抵抗する不利を悟ったのです。
 後藤は容堂、慶永に、「これまでの主張はあたかも内府(慶喜)公が策謀を抱いているのを知って、これを包み隠そうとしているようにとられかねません。思いなおしたほうがよいかと存じます」と説きました。徳川家への義理立ては果したと思ったのか、容堂は結局折れて、それ以上反対意見を述べることはありませんでした。

 一説には、会議のこう着状態を憂慮した薩摩の岩下が西郷を呼んで、意見を求めたところ、西郷は、
「口で言って埒が明かぬなら、最後の手段をとっていただきたい、と岩倉公に伝えてくだされ」と答えました。
 岩下が西郷の言葉を岩倉に告げると、岩倉は静かにうなづき、短刀を懐にして浅野の控え室に行きました。この岩倉の決死の覚悟が後藤の耳にはいり、驚いた後藤が容堂を説得したので、会議の再開後には容堂も黙りこみ、結局岩倉の意見が承認された、とも伝えられています。

 いずれにしても慶喜に辞官(内大臣)、納地(約400万石)を求めることに決して、使者として慶勝(尾張藩)と慶永(越前藩)が二条城に赴くことを了承、会議は午前3時ごろ終了しました。大久保日記より、会議の様子をうかがい知ることができます。

 今夜五時(午後8時)、小御所において御評議、越公、容堂公大論、公卿を挫き、傍若無人なり。岩倉公堂々論破、感服に堪えず。

 君公(島津忠義)云々ご議論、容堂公云々ご異論、やむを得ず予席をすすみ云々豪論に及び候。

 御所内では岩倉・大久保の強力かつ巧みな弁論、御所外では西郷の武力による威嚇が見事な連携プレーとなり、この日の会議で倒幕がわに勝利をもたらしたと言えるでしょう。これ以後、事態は緊迫の度合を深めていくのです。

 二条城に集結していた会津・桑名らの軍兵は、慶勝と慶永の姿を見ると銃剣をかまえ、薩土とつうじて徳川宗家を陥れたな、と激昂して叫びました。旗本の家来衆も甲冑姿で登城しており、城中は異様に殺気立って、両公はあたかも敵の本営へ乗り込んだような、身の危険を感じるほどでした。
 慶喜自身も城中の状況には用心せざるを得ず、越前・尾張両公に対しては辞官、納地を承諾しながらも、御請言上の儀はしばらく延引になるよう取り計らってほしいと頼みました。慶喜は万が一の兵の暴発を怖れたのです。

 さて長州藩の動静ですが、西郷の入念な手引きによって、10日夜から11日にかけておよそ600人の長州兵が入京し、概ね京都市民の歓迎を受けて、倒幕派の士気をも高めました。一方、幕府がわでは老中板倉勝静が江戸に密書をとばして、歩兵四個大隊、騎兵二個小隊と軍艦の急派を命じており、京都は予断を許さぬ一触即発の状況になりつつありました。


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