風雲篇(京都)
● 慶喜の反撃
京都二条城に詰めていた旗本や会津・桑名の藩兵たちは、「すぐにも薩賊を討たん」と激昂しており、慶喜は突発的に戦闘が開かれることを怖れていました。二条城は籠城戦に耐えるような堅城ではなく、朝敵にされることも回避したかったので、いったん大坂に退くことにしました。大坂を抑えれば京都は糧道を断たれるし、公卿たちが動揺して薩長から離反することも期待したのかもしれません。
12月14日、慶喜は大坂城でフランス公使ロッシュと会見しました。イギリス公使パークスとの会見は翌日に予定されていましたが、パークスはこれを知ると、ただちに城に駆けつけて慶喜・ロッシュ会談に途中から割り込みました。ふたりはここで慶喜そっちのけで口論をはじめたのですが、どうやらパークスは先にロッシュが慶喜と会うことが気に入らなかったようです。でも慶喜が親幕派のフランス公使を重視したのは当然だったでしょう。
16日には英仏に加えて米国、オランダ、イタリア、プロイセン六箇国の公使を招き、慶喜は将軍の格式をもって会見に臨みました。各国公使を代表してフランス公使が、「日本の内紛には干渉しないが、今後どちらの政府を相手にして交渉すればよいのか明らかにしてほしい」と主張しました。これに慶喜は自ら答えて、(先の政変は)幼主を擁し、叡慮に托し、私心を行い、万民を悩ます兇暴の仕業であると断じると共に、わが国の政体が定まるまでは外交にかかわる問題は自分が責任をもって処理することを明言しました。
同じころ、京都では公武合体派の巻き返しが始まっていました。12日、土佐の容堂公は「速やかに御所の武装を解き、諸侯会議を開き、徳川慶喜辞官・納地のことは松平慶永に一任するべきこと」を建議し、細川、蜂須賀、有馬など十藩の要人も諸侯会議を開いて諸問題を解決するように訴えました。
翌日、九門を除く御所の守備兵は撤収され、容堂が推挙する肥後藩士2名が新たに参与に加えられました。さすがに剛毅な岩倉も土佐以下十藩を敵にまわすことは避けて、宥和策をとったのでしょう。王政復古を宣言しても、朝廷側にはまだ確固とした政府機関は成立しておらず、資金もなければ人材もいなかったのです。
19日、慶喜はそうした相手の弱点を見抜いて、新政府を糾弾する上奏文を朝廷に提出して、強気の攻勢を仕掛けてきました。大坂には長鯨丸で入港した幕府歩兵一大隊をはじめとする兵力が集結しはじめており、佐幕諸藩を含む幕軍は3万とも見積もられ、土佐、尾張、越前などの諸侯も朝廷での政治工作を強めていました。
岩倉はそうした情勢に圧されて慶喜に妥協せざるを得ませんでした。領地献上の件は天下の公論(諸侯会議)をもって確定し、慶喜を議定に任じ前内大臣として遇することを約束したのです。
朝廷や京都の人々を動揺させないように、軽装が条件とはいえ、慶喜の入京が認められました。こうなれば王政復古は名ばかりで、新政体の主導権も前将軍が握ることになります。慶喜が平和裏に入京、参内すれば、もはや岩倉・薩長側に討幕の理由も機会もなくなり、慶喜を筆頭とする大名諸侯が新しい政治体制の中心にすわることは明らかです。まさに公武合体派の勝利は目前に迫っていました。
ところが、ここで思いがけない情報が、江戸からもたらされたのです。でもその前に、長州藩と五卿の動きについて触れておきましょう。三条実朝以下五卿が大宰府を発して京都に帰ったのは慶応3(1867)年12月27日のことで、広沢平助と井上聞多が随行しました。文久3(1863)年8月18日の政変で都を追われ、雨中草鞋かけで長州に落ちて以来、足掛け5年を経てついに帰京の日を迎えた三条の思いは如何ばかりだったでしょうか。
三条の帰京は、朝廷で孤軍奮闘していた岩倉にとっても歓迎すべきことでした。当時、三条は31歳で43歳の岩倉より若年でしたが、門地の高さと尊攘派公卿としての名望は申しぶんなく、岩倉の足らないところを補完し得る存在でした。かつては反目し合ったふたりでしたが、土佐浪士・中岡慎太郎らの仲介で、すでにわだかまりは氷解しており、29日には岩倉が三条邸を訪ねて会談することになったのです。
その会談に同席した者は、正親町、東久世など2〜3の公卿に、薩摩の西郷、大久保、岩下左次衛門、長州の広沢、井上などで、慶喜上京の可否について話し合われました。公卿がわは「慶喜が辞官納地を承諾すれば、上京させてもよかろう」という意見でしたが、西郷、広沢ら薩長がわは懐疑的で、「旗本や会津・桑名の者らが徳川氏の復権を謀って、どのような事変を生ずるか計りがたく、辞官納地の承諾も策謀かもしれない」と主張して警戒心を解きませんでした。実際、兵力においては多勢に無勢であり、討幕がわに確たる勝算はなかったのです。
これまで西郷が提出していた案は、天皇を奉じての京都脱出を前提にしており、幕軍との戦闘が始まった際には、山陰道に鳳輦(天皇の乗物)を移動させ、中山忠能(天皇の外祖父)も供奉することが指示され、進撃よりも敗退の道筋に気を配っていたことがわかります。
また、当時、木戸準一郎と名を改めていた小五郎は、血気にはやる長州諸隊の情況を非常に憂慮していました。長州兵が暴走して「禁門の変」の二の舞になることを、なによりも怖れていた小五郎は、伊藤への手紙(12月27日付)で軽挙妄動を抑えるように指示しています。要約すると、
「干戈を揺るがし、世間をかき乱さねば、などとさかんに言われますが、そのうち七八は心ならず口にまかせて流行に随っているだけで、決して真に心中より吐露していると思われるものにはいまだ出遭っていません。たとへ、干戈におよぶことが上策にもせよ、元来干戈をもってするは、まったくやむを得ない場合に限ることは国内は申すに及ばず、外国にも必ず示さなくてはなりません。
殊に御国(長州)の弊は尾大の形にて、これを病にたとえれば、弱体に醸すにあらず、健剛より起るという病状であり、手足の強きにまかせて動くのを、心部がこれを制することができないのです。
なにとぞ老兄にも現世の至愚となり、現世の柔弱となり、現世の臆病となり、千載にあい恥じざるの心をもって今日の弊を御矯めなされますよう、只ただ祈念いたします」
つまり、長州藩は対幕戦の勝利に酔いしれて浮かれ騒ぎ、大坂城をただちに踏みつぶせと威勢のよいことを言っている。諸隊の動きに指導層が引きまわされ、いわば手足の動きを精神が統御できないような状況になっているが、どうか冷静になってほしい。大業の達成のためには臆病になってほしい、と小五郎は祈るような気持ちで伊藤に訴えているのです。
さて江戸ですが、12月23日、江戸城二の丸が失火により全焼するという事件が起きていました。二の丸には天璋院(島津斉彬養女)が住んでおり、この怪火は天璋院を連れ去るための薩摩の陰謀であるとの疑いを、幕府がわに抱かせることになったのです。
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